さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

自由な諸個人free Individuals/freie Individuenの民主主義Democracy/Demokuratieの徹底

公園の樹木の枯れ枝にも新緑に育つ小さな芽が見えはじめ、冷気と氷雪に閉じ込められた数ヶ月から脱出したと思っていたら、今朝家を出ると一面の白の世界。吹雪いていて、氷点下6度ですが、とりたてて寒くはない。暖かい建物のなかにずっといれば、少し外に出る程度であれば、そんなん真夏の東京で時々冷房の効きすぎた部屋で寒い思いをするようなもんだ。というのは少し大袈裟かな。

イオンは生ラムがおいてなくて道民仕様になってないなと思っていたんですが、何日か前に鮮魚コーナーでまんまるのゴッコを4匹みました。鱗のないぬめったぶよぶよの姿はインパクトありますけど、唐揚げ美味そう。
函館の冬の味覚、ごっこ汁が味わえる店 | 函館市公式観光情報サイトはこぶら
ごっこ汁・唐揚げ・バター炒めが美味!道南の冬の味覚『ごっこ』とは? | 北海道ファンマガジン
今日見たら、解体されてパック詰めされてました。


喫茶店で何冊か読みました。

吉村武彦『蘇我氏の古代』(岩波書店、2015年)。古代王権による統治を支える社会的分業組織としての「人制」「部民制」の説明に興味をそそられました。つねに大枠しか見ないですけど、自然発生的な人格的依存関係の形態で社会的分業が形成される様をイメージできます。

田中浩『ホッブズ―リヴァイアサンの哲学者―』(岩波書店、2016年)。ホッブズの社会的意味づけはイギリス資本主義の発展が与えたと読みました。「忘れられた思想家」であったホッブズの受容をたどると、労働問題の深刻化など産業革命以降の諸問題によって彼が浮上・再評価されたことが分かる。「自由・平等」という「労働者階級の考え方」の水源は彼の「政治原理」にある(ⅺ頁)。マルクスと同じく、エピクロスに着目していたというのが面白かった(37頁)

大浜啓吉『「法の支配」とは何か―行政法入門―』(岩波書店、2016年)。ホッブズにおいて社会システムの原理を人間に転換した地平の転換を確認したつぎに、「敗戦後70年を経た今日、明治国家の齎した歴史の惨禍から、何を学ばなければならないのか」(ⅳ頁)を問う本書に目を通しました。「『法の支配』の根底にあるのは、『自由で平等な尊厳ある個人』と『社会』の観念」(ⅴ頁)。明治憲法下の「法治国家論」がまだ残存していること、日本の議院内閣制の抱える問題など関心をかきたてられます。

中野晃一/コリン・クラウチ/エイミー・グッドマン『いまこそ民主主義の再生を!― 新しい政治参加への希望 ―』(岩波書店、2015年)。この本のなかで、新自由主義を「企業の力による統治」と捉え、民主主義の復権という深刻な問題を「ポスト・デモクラシー」という言葉のもとに提起しているコリン・クラウチ「私物化される政治と国家」は、政党と社会運動とがお互いを敵視せず連携する必要を訴えて結んでいます(14頁)

この点からしても、北海道5区補選において「市民の会」の働きかけを介して候補統一ができたのは必然的といえましょう。統一の意義を十分に理解しない党員や支持者の無気力・サボり、古い世代の権威主義的人格の残存の影響を懸念していたのですが、野党すべてをまとめるにはいたらず、ベストであるとはいえないまでも、とりあえず、よかった。
北海道5区補選、野党一本化 共産、候補取り下げ池田氏支援 | どうしんウェブ/電子版(政治)

憲法違反勢力の国会支配を止めるには1人区の候補統一が不可欠。
クローズアップ2016:共産1人区取り下げ 参院選、7区で逆転も - 毎日新聞

本書の最後の論考である中野晃一「自由な個人の連帯へ」を読んで、私がとくに紹介したいと思うのは、「自由」概念の再考(52頁以下)という論点です。自由が「巨大企業」の自由に転換し「空疎」になっている(53頁)現状に対して、「個人の尊厳と密接不可分」なものとして再定義する意義を中野氏は政治学的に論じているといえましょう。氏は『経済』3月号のインタビューでも、昨年の安保法反対の運動について、「個人の尊重」を軸とする「多様な連帯」を実現したという新たな一歩を踏み出した点を評価しています(「安保法制廃止の運動と日本の民主主義」『経済』第246号、2016年、20頁)。SASPLのデモに参加したときの「衝撃」(22頁)も興味深い。「若いという凄さ」に素直に感銘を受けています。

中野氏の本からやや離れて、『資本論』に、自由な諸個人の存在諸条件の産出、システム総体の否定性の運動を理論的に表現する人類史的なシステムの自覚の書である『資本論』に敷衍してみましょう。「企業の自由」とは、労働する諸個人の普遍的諸力の客体的自立化が諸個人の意識に出現することであり、「資本の蓄積過程」論における「取得法則の転回」論がつかむ事柄にほかなりません。自然と人間の媒介、人間と人間の媒介を実践する諸個人の社会的労働の力は、そこから諸個人自身を分離・抽象すること(自己の客体的諸条件からの自由と、形式的だが自覚的な社会形成者としての自由である法的自由という二重の意味において自由である労働者の発生)から出発して、いまやグローバルな市場と企業の力として実現しており、ここに発展した社会的労働が、法的にのみ自由であった諸個人に対して、連帯しそれを自己の支えとして再吸収するように求める。真に豊かで自由な人間社会の形成とは、この諸個人とその普遍的諸条件との安定したシステム的統一の実現であり、疎外・矛盾という運動においてこの方向が顕在化する。この把握が「資本の蓄積過程」論であり、それは疎外の極限としての今現在の現代社会をつかんでいます。諸個人自身の個別性と社会性の分裂、社会的労働の個別性と社会性の分裂。この完全な展開、頂点が資本なのでした。他人の所有の領域に実現した生産諸力を、自然的社会的普遍的諸力を自己の延長として「自由な諸個人」が自己のもとに包摂しかえすことが、疎外を疎外する未来の産出なのでした。

社会形成の主体としての個人に定位する民主主義を、他として現れた自己の力である資本に対して徹底していくこと。これしかないのです。

by kamiyam_y | 2016-02-25 01:31 | 企業の力と労働する諸個人