さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

資本主義的生産過程の概念図

産業資本による剰余価値の生産を図にしました。

見にくければクリックし下さい。

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① 潜在的資本(貨幣資本)

貨幣所持者は資本家Kが、貨幣G・100万円を、資本として投下するとしよう。

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② 資本の投下

まず「買う」。貨幣100万円が、商品W(生産のために消費する)に、姿を変える。

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③ 生産資本へ

詳しく見ると、Kは、生産諸手段Pm(原材料など)と、労働力Aとを、商品として市場でみつけて、「買う」。

この際貨幣と商品との「交換」は「等価交換」。
100万円という価値の姿をとった過去の労働(対象化された労働)を代表する貨幣は、等しい価値の商品と交換される。(価値は流通で生まれたり、増えたりするのではないのでしたね)。

100万円の商品(80万円の生産手段と20万円の労働力)と、100万円の貨幣が、過程の前に存在しており、交換(流通)を通じて、持ち手変換がなされ、貨幣と商品とが姿を入れ替える。

Kは、100万円の貨幣を、標準的な技術をふまえて、80万円を原料に、20万円を労働力にふりむける(たとえば、労働力価値が1万円だとしてそれを延20本)。

80万円は不変資本c、20万円は可変資本vという。

原料はたとえば、生産物「糸」をつくるための「棉花」などをイメージすればいい。

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労働力は、生産に要する労働能力、生産物をつくるために「運動させる、肉体的・精神的諸能力の総体」(資本論:以下出典省略)のことである。

労働力商品の価値も、それをこれから何時間使うかとはかかわりなく、与えられている。「労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じように、それが流通に入る前に規定されていた」。

生産諸手段Pmとは、原材料など労働対象と、機械など労働手段からなる。労働手段のばあいは、摩滅に応じて価値が生産物にうつる。ここでは、生産物の生産においてぜんぶまるごと消費されてしまう原材料だけをかんがえよう。

生産諸手段Pmと、労働力Aも、資本家Aが消費するために買った。資本家Aは、生産諸手段Pmと、労働力Aとを、生産物(といっても自分が「売る」ための商品)をつくるためにこれから消費する。

《補足1 労働力商品の価値》

労働力の価値は流通に入る前に与えられている。ちょうど、洗濯機の価値が、洗濯の時間とは関わりなく、生産費によって与えられているように。労働力商品の価値も、【商品価値の大きさは生産に要する社会的必要労働時間によって規定される】という商品価値量一般の定義が妥当する。労働力商品の生産とは、必須生活手段の消費だから、必須生活手段の価値が労働力商品の価値を規定する。賃金がどう変動したって、労働者とその次世代を「標準的な」水準再生産することができなきゃならない。労働力商品の価値も、やはり商品の価値一般に等しく、私的生産というかたちをとった社会的コスト、社会的労働の社会的配分のありかたにほかならない。

《補足2 二重の意味で自由な労働者》

「商品交換は、それ自体、商品交換自身の性質から生じる依存関係以外には、いかなる依存関係も含んではいない」。


つまり、前近代の共同体(封建制)や身分的支配を想定していない。

「労働力の所有者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、……自由な所有者でなければならない」。「もし彼が労働力をひとまとめにして全部一度に売り払うならば、彼は自分自身を売るのであって、自由人から奴隷に、商品所有者から商品に、転化する。人格としての彼は、自分の労働力を、いつも自分の所有物、したがってまた自分自身の商品として取りあつかわなければならない。そして、彼がそうすることができるのは、ただ、彼がいつでも一時的にだけ、一定の期間だけに限って、自分の労働力を買い手の処分にまかせ、したがって労働力を譲渡してもそれに対する自分の所有権は放棄しないという限りでのことである」。


労働力を時間決めでレンタルできるのも、労働者が自由な人格という社会的能力を獲得しているからである。

その反面彼は、生産手段からも「自由」だ(=生産手段から切りはなされている)。
もし生産手段をもっているなら、労働者は自分のつくった生産物を売ればよい。しかし、生産手段をもたないがゆえに、労働者は「自分の生きた肉体のうちにのみ存在する自分の労働力そのものを商品として売りに出さなければならない」。


④ 生産!→商品資本へ(その価値成分はc+v+m)

いよいよ生産に入る。生産Pは、資本家によるモノの消費過程。……は流通の中断を示す。

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原材料など生産手段Pm(不変資本cの姿)が、労働によって変化させられ、生産物W'に変わる。労働はこの場合、特定の目的にしたがって自然物に働きかけ、それを使用されうる形態に変化させる「具体的労働」である。

労働力商品の使用価値は、この生産過程のなかで発揮される。それは、「価値」を生みだすという特別な役立ちだ。

抽象的労働は、新「価値」を生みだす。それは2つの部分に分かれる。

1つは、生産物形態における可変資本v。

資本家は、貨幣20万円を、20万円の価値がある労働力と交換した。
しかし資本家は、この労働力を返さなくてはならない。

資本家は、使わないで返すこともできるかもしれない。その場合でも、労働者の側は、もらった20万円を生活諸手段(衣食住に必要なモノ)に変え、それを消費すれば、労働力を再生産できる。

他方、これなら資本家は、まるまる20万円損をするだけだ。もちろん、80万円の生産手段も使われず、損する。

つまり、資本家はこの労働力を使う。使わなきゃ、価値が生まれない。借りてきたDVDを見ないで返すとのはちがう。

資本家は、労働力を使って、価値を、生産物に付けくわえる。労働は具体的労働であると同時に、労働力の支出一般として、抽象的労働であって、これが新価値のもとになる。

ある一定の時点で、この労働力使用(価値創造)は、20万円に達する。資本家が、労働力と交換した・労働者に払った価値と、同じ大きさの価値が附加された。これは、労働力を借りている資本家のものだ。私有財産の法則がそういう線引きをしている。

労働力を買うのに使われた20万円を再び、労働が生みだしたのだ。資本家は、20万円を労働者に渡したが、労働者はここで、同じ額の価値を、資本家に引き渡した、といってもいいだろう。

さて、資本家は、この時点をこえてさらに労働力を使うことができる。労働力を借りている資本家は、まだ労働力を使う。なにせ、まだ資本家は用意した20万円を回収しただけだ。

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たとえば、この時点が延20人の労働者の全労働時間の半分だとしよう。生産手段をすべて生産物に変えるための時間の半分だとしよう。
労働力の使用は、まだ半分しか終っていない。

資本家による労働力の使用は、20万円をとりもどすだけではなく、それをこえる「剰余価値」をもたらす。
剰余価値20万円mが加わった生産物を、資本家は自分の生産物としてもっている。これまた私有財産の法則に従ってこれは資本家のもの。あとは売れれば、貨幣に変わるだけだ。

しかし、労働者が行った労働は、資本家に20万円を引き渡した、だけではない。それを超える20万円を、対価なしに引き渡している。与えるだけ受け取り、受け取るだけ与えるタテマエはくつがえされている。20万円は不払労働である。これが生産の結果だ。

流通に戻るとしかし、20万円の労働力を資本家は正しい値段で買っている。買ったものをどう消費するかは買った人の権利だ。(もちろん、正常に使わせる権利が貸す側にあるのも確かだ)。

この例では、労働者が、新しい価値のうち、20万円が、可変資本v(労働力を買うのに使われた部分)を補填し、残り20万円が剰余価値である。m’剰余価値率=m/v。
剰余価値率は、100%である。

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⑤ 貨幣資本への復帰

再び資本は貨幣の形。

⑥ 労働ファンド

なお、労働者のほうは、G20(20万の貨幣)を、資本家が商品として売る生活諸手段Kmと変えて、それを消費すること(K)によって、労働力を再生産する。

結局貨幣は資本家の手に戻る。

労働者は自分たちが補填した可変資本によって雇われる。自分の産物によって雇われる。逆立ち。

以前、面白いことをいう学生がいて、「会社がサラリーマンを雇っているとおもっていたが、この図をよく見ると、サラリーマンが会社を雇っているようなもんですね」と感想を述べたことがある。たしかに。

《補足3 賃金》

法的な契約では、労働力に対してではなく、労働時間全部に対して「賃金」が払われることになっている。この「賃金」形態が、経済の本質を隠している。法と経済が分離しているのだ。同時に、労働者の法的自由にとっては、この経済の本質が現象してくれば、それは批判の対象となる。このことは、必須労働と剰余労働とが掟やら決まり事の形をとって目で見える封建制と比べれて考えると面白い。労働者の法的解放という進歩は、剰余労働を経済法則によって不可視化することによってもたらされたが、この解放は同時に、剰余価値の生産という生産の中身にまですすまざるをえない(政治的解放から人間的解放へ)。

《資本と、資本の人格化である資本家》

「貨殖術が追求する富にもまた限界はない。すなわち、ただ目的のための手段を追求するだけの術は、目的そのものが手段に限界をもうけるので、限界がないということはないが、これに対して、その目標が手段としてではなく最終の究極目的として意義をもつ術はすべて、その目標にたえずますます近づこうとするがゆえに、その追求には限界がない。それと同様に、この貨殖術にとってもその目標に限界はないのであって、その目標は絶対的な致富である。家政術は、貨殖術と異なり、ある限界をもっている。・・・・前者は貨幣そのものとは異なるものを目的とするが、後者は貨幣の増殖を目的とする」(資本論におけるアリストテレスからの引用)。


「この運動の意識的な担い手として、貨幣所有者は資本家になる。彼の人格、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。資本の流通G-W-G'……価値の増殖……は、彼の主観的目的である。そして、ただ抽象的富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の推進的動機である限り、彼は資本家として、または人格化された資本、意志と意識とを与えられた資本として、機能する」(資本論、手を入れた)。


価値増殖という資本の本性が資本主義として社会をまとめる。資本家は、資本の姿である。資本家という人格が社会システムの起点に位置するわけではない。資本家の支配が問題なのではない。むしろ資本が資本家と衝突する。




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問 一回の生産期間に生産手段をすべて消費するとする。貨幣資本1000万円を、不変資本として800万円投下し、200万円を可変資本として投下する。剰余価値率が160%の場合、生産された総生産物の総価値に含まれる剰余価値の量は、何万円か?(剰余価値生産という資本の一般的運動を対象としているので、価格と価値の乖離は想定しない)

答  800万円の不変資本はそのまま、生産物に再現する。価値増殖するのは、労働力に投下される可変資本vの部分。剰余価値率は、労働者が、必須労働の何倍、剰余労働しているか、労働力価値・必須生活手段価値・可変資本の何倍、剰余価値を生みだしているか、を示す。だから、200×1.6 → 320万円。
by kamiyam_y | 2005-07-17 19:29 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)
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