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単純再生産 Einfache Reproduktion:『資本論』第7篇「資本の蓄積過程」第21章

次のハーヴェイの板書を見ると(タイトルロゴの写真)、資本の循環における買いの部分〈貨幣-商品〉の商品の箇所、労働力が上で生産手段が下に書かれてますね。『資本論』のとおりです。
Reading Marx's Capital with David Harvey

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商品交換が相互の交換者に想定させるのは、所持する物がそれぞれの自己労働の産物であることでした。ここでは当事者は同一の生産共同体に属さないまったく無関係の孤立した他人どうしですから、相手の所持する物が相手のつくったものとお互い仮定して認めておくほかありません。

労働者に相対する資本家が所持する交換物件・貨幣もまた、この単純な商品交換としての取得の法則が妥当して資本家の自己労働の産物として通用していきます。生産の連関から切り離された孤立した交換であるかぎり、ここに登場する資本家が所持する価値は彼の労働の産物である私的所有物として承認の衣に包まれています。

資本家のその排他的な所有の向う側は入るべからずであって(最近流行の「偽装表示」!)、生産物の背後の過程は問われない。しかし、過程の絶えざる反復という資本の存在条件は資本のこの表向きの由緒正しい表示を自ら取っ払ってしまいます。

In einem stetigen Zusammenhang und dem beständigen Fluß seiner Erneuerung betrachtet, ist jeder gesellschaftliche Produktionsprozeß daher zugleich Reproduktionsprozeß. (MEW.23., S.591.)
「それゆえ、どの社会的生産過程も、それを1つの恒常的な関連のなかで、またその更新の不断の流れのなかで見るならば、同時の再生産過程なのである」(岡崎訳)

Obgleich letztere nun bloße Wiederholung des Produktionsprozesses auf derselben Stufenleiter, drückt diese bloße Wiederholung oder Kontinuität dem Prozesse gewisse neue Charaktere auf oder löst vielmehr die Scheincharaktere seines nur vereinzelten Vorgangs auf.
(MEW.23., S.592.)
「この単純再生産は、同じ規模での生産過程の単なる繰り返しであるとはいえ、この単なる繰り返しまたは連続がこの過程にいくつかの新しい性格を押印するのである。または、むしろ、それを単なる個別的な過程のように見せる外観上の性格を解消させるのである」(岡崎訳)


生産過程の結果として産出された労働力価値の等価は、「労賃」という形をとることでその源を人々の眼から封印したのでした。交換過程における商品所持者の法的に自由な関係というものが生産過程から分離したまま生育するならば、それは、搾取という自由平等に反する事態を隠蔽し資本家と労働者とを自由平等な関係に転換して示す「労賃」をもたらします。

「労賃」では、労働力価値が労働力価値としては認知されないことによって、労働力商品の使用価値である価値産出が労働日の価値、資本家の支払う貨幣と等価とみなされ、剰余価値の源泉が承認の世界に浮上しないような関係が成立していたのでした。労働力ではなく「労働の価値」に対して、1労働日の労働に対して資本家は支払うのだ、という「常識」の世界ですね。これによって、労働者と資本家は自らの自由な意思にもとづいて等価交換しあう自由で平等な主体である、資本家による他人労働の無償の取得はない、という幻想が成立。

《1労働日の労働に対する支払》という契約では、労働日が労働力価値を生み出す必須労働時間と剰余価値を生み出す剰余労働時間からなることがもちろん消え去っています。労働力の価値という本質が「労働の価値」という法的幻想的形態に転化することで、剰余価値が湧いてくる場所が労働者の労働から切断されるわけです。こうして交換過程の自由な私的所有関係が資本家と労働者との交換に浸透し、賃金と剰余価値の真の発生の源泉を不可視化し、資本を適法的な市民的秩序に埋め込んでいたのでした。

ところがこの埋め込みは、流れと拡がりから分断された1回限りの交換によって成立するものなのでした。繰り返しにおける生産、資本の「単純再生産」は、これを覆して生産過程の本質的関連を現出させるのです。

資本家が自分の貨幣を労働者に渡すとみえた賃金。これは労働者が自己の生産物をその手に戻しているにすぎないことが判明します。可変資本は労働者自身が生活し自己を再生産するために必要な生産物以外の何物でもありません。また、社会的拡がりと流れにおいては労働者の自由な個人的消費もまた資本の再生産の契機なのであって、彼が労働力を売るのは自由な選択ではなく、労働の客体的諸条件と労働力との絶えざる分離によって強制されているからであることが明らかとなります。孤立的交換における自由な意思、自由な契約、自由で平等な交換は、全体的連関のなかでは反転して現象し、人権・民主主義が交換にとどまることの限界を露呈します。

内訳を問わずに総資本をみてみると、資本家による不労消費が、すべて資本に代表されて資本が剰余労働の物質化であることが理解できます。ちょうど、自分の所有物をもちながらも盗みで自分の消費を行う人が、自分の所有物を盗みの物質化にしてしまうように。

資本家が剰余価値を自らの収入にするならば、資本家の自己労働の産物として当初現れた総資本を、その分だけ剰余価値の物質化、搾取した他人労働の代表、剰余労働の物質化に変えることになります。資本は任意の一時点を出発点とすれば必ず自己労働による所有物として運動を開始するわけですが、運動過程は資本を搾取した他人労働の凝固物に転換して示さざるをえないのです。

さらに、拡大再生産・蓄積においては、単純再生産部分だけではなく、資本化した剰余価値部分についても資本家の自己労働の産物という性格を消し去ります。最初の自己労働の産物としての資本の結果である剰余価値が、剰余資本(追加資本)1号に転化すれば、まだ最初に資本家の自己労働が想定されていますが、この剰余資本1号の帰結である剰余資本2号においては、出発点が他人労働の産物であって、資本家の自己労働の痕跡が完全に消え失せています。

こうして今やあらゆる世界が、生産過程とその生産物のすべてが、労働者自身の自己の対象的世界として、労働する諸個人の確固たる創造物として出現しているのです。資本の再生産が資本家の自己労働を仮定する私的所有の完結性を解体することによって浮上させているのは、生産過程が社会的生産過程として労働する諸個人の自己の環境にほかならないという人類史の荘厳な真理にほかなりません。生産発展は、《民主主義》を孤立した交換の天上にとどめることなく発展する民主主義へと転換し、物神崇拝的隠蔽諸形態を引き裂いて、人類史のこの真理を実質的な体制認識へと、社会編成を律する合意へと不断に高めていきます。資本主義の研究とは変革のモメントをなす人類の対自的自己認識なのです。

註 労賃論と蓄積論の関係は、有井行夫『株式会社の正当性と所有理論』青木書店、1991年、254頁以下。単純再生産論の解説としては、金子ハルオ「資本蓄積論」(岡本博之・宇佐美誠次郎・横山正彦・木原正雄・林直道監修『マルクス『資本論』の研究 上』新日本出版社、1980年)。
by kamiyam_y | 2014-01-02 06:17 | 資本主義System(資本論)