さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

続 プチ魔術  霊能力業界に企業倫理は妥当するか

きもい男

「守護色」という占いがあるのを知りました。
日本史でならう「守護職」かとおもいましたが、20代の女性からきいたストーカーチックなお話。彼女にご執心な40近い男がこれに凝っていて、彼女は「バカじゃないの」と言ってました。

「占いなんて、だれにでも当てはまること書いてあるだけなのに。……しかもキモイの~。アタシの守護色勝手に調べて教えてくんの」。

ちょっと検索するだけで「守護県」やら「守護天使」まで出てきます。

いや~~、だれが考えてるんでしょ。ふつうこの女性みたいに占いごとき遊びと割り切っているはずで、心の底から本気にするやつは絶対的に思考停止してるか、よほど守られたくてしかたない依存症なのでしょう。

とはいえ、生産者は今ではただの私的存在ではなく、社会的なもの。
やっば売る側のもんだいおおきいでしょう。

近代と労働

私たちの「内面の自由」とは、もちろん国家から道徳や信仰を強制されない内面の自由であり、特定の信仰集団が政治に関わらないことを意味します。

この自由の忘れられた基礎にあるのが、商品流通です。商品流通は人を、共同体成員としてではなく、私的所有者として行為させるからです。

「内面の自由」とは、裏返していえば、それは、自然発生的な共同体の共同幻想であった幻想が、近代になって、「個人」によって選択される対象となったこと、かつての共同幻想もまた商品の地位におさまったことを意味します。

望むこと、祈ること、願うこと、これらは人間の、もっとも人間らしい行為です。

意欲すること、欲求することは、まさにそれ自体労働とおなじ世界の二重化です。
労働は、個別の行為(環境と自己の関わり)をその要素としながら、高次の意味=目的の循環を成り立たせる行為です。みえない関係の発生です。祈ることはまさに、みえない関係にほかならず、労働とは精神的=社会的なものです。

宗教はこうした社会関係として人類史において積極的な役割を果たしてきており、以下では宗教とは区別して、オカルトを扱います(今手元にないのですが、『オカルト徹底批判』 朝日ワンテーママガジン28で呉智英も宗教とオカルトは区別するとしてオカルト批判してます)。

電話占いのコンプライアンス

以前「ノブナガ」という番組で、悪質「電話占い」屋で働く人物がその実態をしゃべってました。

この人が言うには、少しでも電話時間を延ばして儲けるために、「今から占います」と言っては、タバコを取り出し一服しているのだそう。

占い自体ただの連想やこじつけです。偶然でしかない事象に対して、そこに、必然の糸が通っていると直感することによって、安心したり納得したり希望や絶望をもったりする方式です。
さっきの女性がいっていたように、多かれ少なかれだれにでも当てはまる記述なのですから、納得できれば正しく、できなければ外れたことになる。
純粋に主観的な認識だから(行動を導く点では実践の契機だが)、その点からすれば、商品としての占いの製品管理は形容矛盾。

占いの正否を問わずに、業界倫理としていえるとすれば、占ってもいないのに、悪質電話占いのように、占わずに一服して料金をふんだくるのは、当然契約違反であって、詐欺だということ。

占い師の差が、占いそのものにではなく(信じるものは何でも信じるのだから)、話術やコミュニケーション能力にあるのだとすれば、企業倫理を設定できるのは、占い師の態度や、占いがもたらす効果に対してではないか。

とすれば、人を不幸な気分にすることは言わないとかいった程度の企業倫理のガイドラインくらいできるでしょう。あるのかもしれませんが、調べてないのでわかりません。

(ちょっとメモです。近年「企業倫理」が強調されるようになったのは、ちなみに、世界市場の展開という大きな文脈において、国家による介入以前に、企業世界が自主的なルールをもうけ、企業の社会的正当性を主張するようになったから。株式市場による評価以前に正当性の担保が必要なのである。また、この点、市場化は、その語感とは反対に私的所有による正当化を介していない)。

それから、占いはただの遊びだという商品情報を開示しておくとか、占い依存症患者には病院をすすめるとか、どうでしょうか。それはそもそも業界を否定することになるからと受け入れられないのでしょうか。それくらいの冷静さは必要だと思いますがね。依存症患者をつくることが業界の利益だというマッチポンプな経済も作用するとはいえ。

細木数子も「占いなんてない世の中がいいのよ」と朝日新聞の正月の特集版で言ってましたし。

逆に、悪徳霊感商法がどんどん強くなっていって、そのことによって、「占いなんてただの遊び」と気づいて一人一人が図太くなる方がいいのか、ともおもったりします。

少なくとも、「アンアン」はおしゃれぶってるけど、大企業なのだから、オカルトを売ること、オカルトの需要をつくりだすことにたいしては、社会的説明責任があるというべきでしょう。
もしかして「アンアン」の編集部、本気で占い信じてるんじゃないだろうな。
本の専門家のくせして。買い手より責任あるんだぜ。

アメリカみたいに、それが「遊びであり、科学的根拠はないとのただし書き」をつける(菊池・谷口・宮本編著『不思議現象 なぜ信じるのか』北大路書房・菊池序章)のも必要かも。

民主主義とオカルト業界

「アンアン」終りのほうにある広告のページがまた「霊」「前世」といった恐ろしげな言葉がいっぱい。

適当に広告からアレンジしてみますと、
「透視××でみえる鑑定 20分5250円 延長料金1分210円 指名料 2000円」といったぐあい。
「テレフォン鑑定」「守護霊」「前世」「月だけが知っている」「相手の生き霊をよびだす」「神霊の直弟子」「復活愛を念じる」なんて言葉のオンパレード

この広告群の雰囲気は、男性雑誌にある「出会い系サイト」などのアダルト系の広告や、サラ金の広告を50倍くらいいかがわしくした感じです。

人間は精神的で、高次の超感覚的連関を自分の環境とするがゆえに、物理法則をこえるかのような錯覚も生じ得ます。でも理科の本質を押さえていれば、こういうオカルト見抜けるはずなんですが。

加藤鷹さんが「自分に自信が持てない女の子ばかりが増えていったら、日本の男としてはつらい」「自信回復してもらおう」とのべてるけど(「ニュースのGスポット」54『週プレ』5・31)、自己肯定感の低さによって占いに頼る人もなかにはいるでしょう。
痛み止めみたいに多少効くならまあしかたないのかもしれません。

バカは勝手にだまされてろ、と言ってもしかたないので、女性誌の一部は、霊感商法・霊視商法推進団体なのでしょうか、とだけいっておきます。

------------------------------------------

お悩み相談1

私はあんまり授業出てなくて、それで成績悪いです。

さいきんそれですんごく落ち込んでます。

友達は私くらい授業出てなくても、ちゃんと単位とれてて。何が悪いんでしょうか。


解答

あなたの落ち込みやすい性格のせいですね。

悪霊は自己啓発していない弱い性格の人にとりつきます。

守護霊に懺悔して、きちんと悪霊追放祈祷集会に出席して自己啓発しましょう。

-----------------------------------------
(新興宗教団体のパンフを何枚かみながらテキトーに作文しました)

悩みから霊感商法にだまされるような消費者って、↑程度のものを本気にしちゃうんでしょう。

こういう集会ってただの霊感商法なら俺には関係ないですけど、

「家族の愛を復活」「家族が社会の基本」といった信者のあいだだけの道徳を、社会に押しつけ、政治に影響力を及ぼそうとしだしたら危険。

そうなったらこういういかれた集団は、「世の中こんな堕落している、乱れている、少年犯罪も増えている、児童虐待も増えている」といった怪しげな主張をして、「警察」の権力拡大を助長します。
道徳的を握った権力は、「青少年育成を名目に性表現を抑圧し、「正しい風紀」にそぐわない同性愛者や水商売の方々を抑圧し、もちろん非嫡子も差別します。
「条例」や「微罪逮捕」でもって自分を批判する人々を排除し、羊のような市民を統制し、ファシズムが浸透します。

「占い番組に夢中になる人たちの多くが、……『そうか、“木星人”はここ数年は最悪の運命なんだ』『私が上司とすぐに対立して出世できないのはB型だからなんだ』と自分の人生への不満、あるいは自己否定感情に折り合いをつけるために、占いのご託宣や血液型を使っているのではないだろうか。……人は自分が社会や自分自身に感じている理不尽さや不安と戦うのを放棄し、『これは運命なんだ』とあらゆることを粛々と受け入れようとしている、ということにもなる」(香山リカ「この占いブームが続いていけば『憲法改正』も簡単にできる!?」『週刊ポスト』第37巻第1号通番 1787号、2005年1月7日)。

失恋してもこの「姓名」からくる運命だから仕方ないとおもう人。テストが悪かったのは「運」のせい、もっていた「時計」のせいなんて考えるためいつまでたっても経験から学ばずに成長しない人。
それくらいならただの愚行でこれまた俺には関係ないですが、社会に対する無関心や、他人が権力によって抑圧されることに対する無関心は、自由な人間社会をつくっていくうえで、大きな障碍になります。

資本主義は、一面では、個人が、自分の生活を、社会から切りはなして、個人の運命やら、個人のお祈りの問題に矮小化してしまうように作用します。
個人を受け身にする作用が資本主義にはあります。

同時に、資本主義は他面では、個人の合理的判断能力を鍛え、個人を民主主義的社会運営に参加させることをも、その課題、時代精神とします。

内面の自由は近代の大前提ですから、どんなおかしなことを信じてもそれは自由。

だとしても、現代では、そういう消極的な自由に個人がとどまっていては、社会のしくみを試行錯誤して、諸々の困難を打開することは不可能です。

自由は積極的に守るものだし、つくりだすもの。
民主主義は、個人が合理的判断能力を持ち、積極的に権利と自由の実現のために社会に関わることを前提している。

「ある雑誌にとても評判のいい占いページがあった。編集長が『……あの占師はどんな人?』と担当者に訊いた。担当者はきまり悪そうに答えた。『手の空いたアルバイトが交代でテキトーに書いているだけなんです』と。……アルバイト君にコツを尋ねたところ、『なるべくいいことをちょっと暖昧に書く』のだそうだ」(永江朗「占いブームは不安の表れ〈新書漂流142・板橋作美『占いの謎』文春新書〉」『週刊朝日』)。

「いいことをあいまいに書く」と読者の喜ぶ占い文が書ける。そうだろうと思う。

間違ったことを信じ続けてだまされる権利はありません。だまされる権利とは、詐欺にあう権利であり、世論操作の客体となる権利です。そんな権利を認めたら、殺人もOKです。なぜって、権利とは共同的意思によって承認された行為能力であって、詐欺も搾取も殺人も、社会の共通利益にならないからです。間違うことも、試行錯誤することも人が成長する契機であり、そのかぎりで人の権利に含まれているとみることができるとしても。真実を知る権利はあっても、幻想にだまされ続ける権利も義務もない。だまされるとは、乗り越えられるべき状態にすぎないのですから。
by kamiyam_y | 2005-06-14 01:12 | 企業の力と労働する諸個人