さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

まっとうな社会的自由としてのデモ:技術と社会

野間易通『金曜官邸前抗議』(河出書房新社)、第6章の最後の節にある柄谷行人のせりふ、なかなかいいです。興味のある方は買いましょうということで、ここには書きませんけど。

その少し前の箇所に鎌田慧の指摘として、原発建設に対して反対し勝利したところがたくさんあるが「論理で危険だと訴えても、カネの力で推進してくるものには勝てなかった」と書かれてあります。

「カネの力」ですね。気になるので、大きな枠組みに入れ込んで「技術」への考え方を繰り返してみます。技術は合理的だから合理的に管理すれば安全、つまり安全という生活の権利は技術によって本質的に解決済み、安全の問題は技術の問題、とみるのが、私たちの思考にあって偽の安定性を求める態度でしょう。こういう態度においては、技術が人間のために利用されているか、労働者と環境破壊を破壊する非倫理的な技術を他の選択支に優先していないか、といった問を立てることができません。技術の非合理的利用・非合理的技術の普及という問題はあらかじめ排除されてます。廃棄物を処理できず壊滅的な事故に結びつく技術を、非合理的かつ非倫理的と呼ぶことにためらいは不要です。

鎌田が述べている「カネの力」の作動を媒介して考えるってことですし、「カネの力」を労働する諸個人の諸力の否定的な発現として捉えるということ。カネとして介在してくる経済的諸関係自身を私たちが管理できないというシステムのありかたを抜きにして、自然(技術)と生活(安全)が一致すると想定するのが私たちの思考の怠惰ですが、同時に、カネの力がモノに擬態して背景に溶けてしまうことを積極的にここではカネの力が自ら突破し、私たち自身の諸関係を私たちが管理することの必然が示されているともいえます。

私たちの集合力の諸関係が生活を破る威力として、制御を要するものとして出現し、私たちに問を投げかけることで、私たちが疑い、声をあげ、学び、自らの社会的開発を進めていくという必然。

ちなみに、技術そのものを社会的安定と混同するような、安全な原発という形容矛盾に固執する原発共同体的幻想の裏返しは、資本主義的利用から切り離された技術一般の未完成・根源的悪を主張するような反生産力主義ですね。

という話はあくまでも問題の一般的な枠組みです。日本における原発の拡大という個別的事情はその諸要因を歴史的に探求すればよい。ここでは細かいことは無視ってことで。

野間さんの本から逸れてしまいましたが、本書はデモする社会というあたりまえの民主主義について考えさせてくれる歴史的証言です。
by kamiyam_y | 2013-01-28 23:57 | 労働論(メタ資本論)