さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

人権と監視社会化(1)

明快な基準もなく増え続ける監視カメラ。個人の映像を同意なく撮るカメラがルールもなく設置されている現状は、プライバシーや個人情報保護という権利の問題にとどまらず、私たちのつくってきた近代社会のありかたを再確認しながら、現代を考えるという大きな問題を提起しています。


1 監視機構の制御は民主主義のテーマ

監視カメラは、いまや一種の「権力」の装置といってよいでしょう。
それが私的防衛のためであろうと、公共的空間の監視であろうと、人々を管理し、人々の行動を抑制し、人々に対する公的団体の行動に利用されうるのだからです。

あらためていえば、近代社会において行為の正当性を判断する最上位のルールは、憲法です。「人権」を、社会的合意の唯一の基本原理として、権力の行為の正当性を判断する規範として承認し、人権主体である個人を権力の正当性根拠とする(主権在民)のが近代です。

監視システムが実態としてあらわれた権力のすがたであるとするならば、それはこうした原理にしたがって管理されなければなりません。
防犯の必要というあいまいな不安観念や、監視カメラ関連の売り上げが増大すること(犯罪の人類史的効果)を理由にして、近代の原理原則を捨て去るとしたら、愚行です。

私たちが成長する権利という近代社会の原則にてらして問を発することが重要です。監視テクノロジーの高度化が、既存のプライバシー保護の方式に収まらないかのようにみえるのならば、原理原則に立ちもどって検討しなければなりません。ほんとうに必要なのか、必要性と目的の明確化を議論すること、どのような基準で設置すべきか、目的外使用・乱用・誤用をチェックできるのか、など、正当性(理由や理念)と、運用・管理の智慧とルールを議論することが必要です。

「『民族』紛争の悲劇は、国家が強すぎるからではなく、社会契約の論理でとらえられたすがたでの国家――自然の所与(『大地と血』!)としての国家でなく、諸個人が契約によってとりむすんだ、人為の所産としてのものだったはずの国家――が弱すぎるから、ではないか」(樋口陽一『人権』三省堂、1996年、113頁。下線引用者)。


国家やら共同体やら会社やら何やらの実態的な力を、「社会契約」というフィクションによって規制するのが、近代の智慧です。権力とは人々を規制する社会的諸関係ですけれど、これを人々が制御するにはどうしたらいいのか。前近代だと人々は、土地やら道具やらと死ぬまで合体したままで、移動も職業も自由がなく、いわば権力のなかに埋もれたままです。近代は、個人を権力と切りはなして、「個人が権力の唯一の発生のもとだよ」という了解を普くひろめます。商品経済は人を私有財産の持主にして、自由な合意だけを人が従う権力にします。この状態をいわば民主主義の原始状態と考えると、資本主義という社会システムは、これに対して、これに収まらない経営者権力やら企業の権力、組織の力などなどをどんどんつくりだします。それが、諸個人による民主主義を「現代」民主主義という運動状態に発展させていくわけです。
警察や軍隊といった公共権力も同じです。こうした権力も、市民を根拠としてかれらの民主的管理の下にあるというタテマエをもっており、お上が「いいだろう」といって受け身の個人に(家父長的に)与えるものとして立てられているのではないにもかかわらず、実態として市民から独立し、かれらを抑圧する力としてあらわれてくるのですから。

奥平康宏は、日本では「市民的な自由との緊張関係を配慮して権力の限界を事前にきちんと明示するということがなかった」と述べています。権力の自己目的化を否定する智慧が蓄積されてこなかったといってもいいように思われます。

「奥平――……『権力』を、大目に、あいまいに残しておくことは……内務省に即して言うと、連綿と続く伝統的な手法であった。……目的がちゃんとはっきりしていて、『それはこういう目的です』と示し、かつそれに適合的な手段という、『目的達成に必要な最小限度規制手段』という原則が、今においても確立していないと思う」(奥平康宏・宮台真司『憲法対論』平凡社、2002年、90-91頁)。


権力をグレーゾーンにおいたままにすることが、予算拡大など権力の自己維持の手法なのです。権力がたとえば道徳の占有者として現われるという転倒と、自己保存がうむ腐敗。「権力の限界」を明示せず、その恣意的な運用が権力の自己増殖と腐敗を生む。自由な人民の主権(「憲法」)という正当性根拠を自覚しない権力は自己保存運動として腐敗する。

引用文に述べられているのは、日本的なものにおける権力のありようです。個人の解放を民衆による徹底した闘いの結果として共通の記憶としてはもたないためでしょうか、日本では、その市民社会の懐が浅いというか、成熟度の低いというか、公共性が無自覚な善意や、「お上」の意向としてあらわれるといえます。

くわえて、高度な資本主義社会に共通する問題ですが、テクノロジーの進展が、自由の拡大と、人権の抑圧とをないまぜにしてすすむことです。テクノロジーによる人権抑圧は、テクノロジーそのものの問題ではなく、テクノロジーの資本主義的なすがたにあります。監視システムとは資本のすがたのことです。

まさにこうした大きな問題の系列なかで「監視」問題も発生しています。


2 監視カメラ:北海道新聞特集「あなた見られてます 監視と安全のはざまで」によせて

北海道新聞(北海道新聞社ホームページ)で「あなた見られてます 監視と安全のはざまで」という特集がくまれていて、その第1部「カメラ」が4月20日から5回、まとめの記事が4月30日に掲載されていました。

参照   「監視」と「安全」:札幌から ニュースの現場で考えること

ひと月前の記事になりますが、とても面白く考えさせられるところ多しです。

以下同特集のうち「カメラ社会」、カメラによる「労務管理」、「街頭カメラ」について、覚書を記しておきます。


2-1 権力の乱用を防げるか

まず、第1部のまとめの記事(2005年4月30日土曜日、北海道新聞・朝刊8頁)から、私にとって興味深かった点のうちから5点ほどあげ、手がかりとしてみましょう。

第1に、行政の対応にばらつきがあること。「道管理のカメラに運用ルールをつくる必要はない」といいきっている道に比べ、運用要領によって、管理責任者・連絡先明記を義務づけている静岡県のほうが問題に自覚的です。

第2に、民間営利団体によるビデオ録画の警察への提供について。記事によれば、三月の名古屋高裁の判決で、コンビニでの撮影・録画は、店と関係のない事件のために警察に記録提供されたばあい「防犯目的に含まれるとみることはできず、肖像権やプライバシーの侵害が問題になる」と指摘されたとのこと。北海道のコンビニ「セイコーマート」は、記録の外部提供について、内規に従い任意要請を断ることもありうると説明しているそうです。

第3に、商店街振興組合など民間カメラの実態がまったく明らかにされていないこと。
民間のカメラ設置者が、もし公共的な利益を担っているのだと自認するのなら、きちんと憲法や法律にてらして根拠を示し、情報公開と公開的な議論に参加すべきとおもわれます。そうでないと「善意でしていることだから黙っていろ」という態度にもみえます。これでは、言葉は悪いですけど、「秘密警察」みたいですね。密かに撮影していて、それを警察に提供することもありうるのですから。

昨年度教えた学生が数人、商店街に取材に行き、監視カメラ設置についてレポートを書いてくれましたけど、それによると設置者は問題の所在がどうもわかっていないようでした。

民間による監視カメラは、それ自体は盗撮カメラと変わりません。公共的な目的のもとに設置されるのであれば、ルールづくりの議論が必要です。それを不要と見なし、「犯罪防止」というたてまえ以外しめせないようなカメラ設置こそ問題です。

第4に、対照的に、カメラ設置を秘密にしていない会社もあること。札幌市都市開発公社はモニター室の取材に応じたそうで、「数十メートル先の女性が手にした雑誌の文字まで映し出すほどの性能に驚いたが、それを『公開』する姿勢は評価すべき」と述べられています。こんな高精度だからこそ、情報公開する姿勢が重要です。

第5に、「政府に反対する人の監視に使われないか」という危惧。上智大の田島泰彦のコメントです。当然こういう監視にも使われているでしょう第4回によればNシステム(自動車ナンバー自動読取り機)が、裏金づくりを抗議していた元警部補を監視するのにつかわれたという証言も。

「監視の強化に対して、どれほど効率性の向上という目的が正当性を与えても、それ以外の欲望が同時に一役買っている。…[中略]…監視の新システムの設計やその実装において、倫理的検討や民主的参加はあるのだろうか。そのプロセスは不透明なまま、かつての秘密主義的な官僚政治的刊行がいまだに機能しているのだろうか」(デイヴィッド・ライアン『9・11以降の監視』田島泰彦監修・清水知子訳、明石書店、2004年、256頁)


防犯や効率といったあいまいな大義のうらで、市民をいわば分断し、監視する欲望が実態としてあるのであって、これをおさえる人民の権利(民主主義的な管理)こそが、監視を監視する民主主義的参加こそが、求められていることの本体でしょう。効率性という正当性の背後にある欲望も明示されず、倫理を制度化する民主主義的な智慧づくりがされているのでしょうか。

以上5点あげましたが、問題は「現代」の大きな文脈の中にあるとかんがえます。個人の人権に疎遠な、外在的な形で出現した公共性、人々の人権を無視してあらわれた公共的なもの(註1)、人権外在的な公共性の出現に対して、人々がそれを、人権内在的な公共性(市民社会の論理で制御される権力、民主主義的な管理におかれた共同性)に転換する試みを強制される。「監視」もこういう現代の流れのなかでおきている問題だと思います。人権から公共性を切りはなして、人権よりも全体利益を、という態度は、実態としてあらわれた公共的な権力(個人を抑圧する権力肥大や、市民社会と対立する企業権力・経営者権力、民間監視システムから、世界市場まで)を、民主的な手続と情報公開とルール化、管理責任の明確化、等々によって制御していく道を閉ざすでしょう。そういう全体利益とは諸個人から浮き上がった威力なんですから。

「我々がもっとも注意しなければいけないことは、利便性という隠れ蓑に潜んで広がる監視のインフラ整備であり、現実の恐怖を前にして、なしくずし的に積み重ねられる監視の既成事実である」(江下雅之『監視カメラ社会』講談社、2004年、35頁)。

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註1 特に日本では公共性が人権抑制の論理として一人歩きする点は、国連から勧告まで受けている。「市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)人権委員会 第64回会期 規約第40条に基づき日本から提出された報告の検討 B規約人権委員会の最終見解 日本」に言う。

8 委員会は、「公共の福祉」に基づき規約上の権利に付し得る制限に対する懸念を再度表明する。この概念は、曖昧、無制限で、規約上可能な範囲を超えた制限を可能とし得る。前回の見解に引き続いて、委員会は、再度、締約国に対し、国内法を規約に合致させるよう強く勧告する。


なお、同22では日本の「起訴前拘留」が、同25では「刑事裁判における多数の有罪判決が自白に基づくものであるという事実」が、人権侵害的なものとして問題とされている。植草さんの事件は日本社会のいわば構造的腐敗の露出にほかならない。
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つぎに、民間企業による従業員監視と街頭カメラについてみてみます。
by kamiyam_y | 2005-05-29 21:52 | 自由な個人の権利と国家 | Trackback(1) | Comments(0)
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Tracked from 札幌から  ニュースの現.. at 2005-05-31 15:40
タイトル : 「監視」と「安全」
数日前から北海道新聞の社会面で、「あなた見られてます 監視と安全のはざまで」というタイトルの連載を始めました。北海道の方なら、どこかで紙面をご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。今回は第1部と位置づけ、「カメラ」を軸に記述しています。取材チームは4人で、私は担当デスク、という役回りです。 街頭や公共施設、コンビに、駅、商業施設など、今ではあらゆる場所に「監視カメラ」「防犯カメラ」があります。先日は(一部は記事にしましたが)、ふらりと出掛けた札幌近郊の公営温泉の脱衣場にもカメラがありました。...... more