さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

ヴェブレンを読み返した

突然の体の不調で、病院にお世話になってきました。いろいろやらねばならないことがあるので、はやく治したいです。不調の一因がスーパーで衝動買いしたあるものにあるにちがいないと睨んでいるので、今後気をつけることにします。確証がないし、調べる気もしないのでこれ以上書きませんが。

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ヴェブレンを読み返した

『国連人間開発報告書』の理論的支柱であるcapabilityアプローチを提起しているアマルティア・センは「貧困」を社会現象としてとらえ独自の人間発展論において課題としているし、ケインズは学生時代ムーアの反功利主義的な倫理学に影響を受けのちに「自由放任の終焉」を書いているし絵の収集家だし、ケインズと同い年のシュンペーターはウィーンで歴史や法学を学びオーストリア・マルクス主義者と交流し社会化委員となり大蔵大臣を引受け『資本主義・民主主義・社会主義』を書いたのだし、アダム・スミスのテーマはモラルフィロソフィーであり市民社会の自律的形成を課題とした、というように面白い、偉大とされる経済学者というのは、エコノミクスの範囲のなかで収まらない人物ばかりです。こうした経済学者たちは、経済学者というより社会理論の探求者です。

ソーンスタイン・ヴェブレン、1857年ノルウェーの移民の子として生れ、1884年に哲学博士となるもしばらくは職に就かず本を読んで暮らしていた奇人、ハイルブローナーの『入門経済思想史 世俗の思想家たち』(八木甫・松原隆一郎・奥井智之・浮田聡・堀岡治男訳、ちくま学芸文庫、2001年)の第8章を参考にしながら、彼の1899年の『有閑階級の理論』(髙哲男訳、ちくま学芸文庫、1998年)と1904年の『営利企業の理論』(小原敬士訳『企業の理論』勁草書房、1965年)を読み返してみると、『営利企業の理論』のよく知られた、「産業」Industryと〈営利〉Businessとの対立という構図が、前者『有閑階級の理論』の、平和愛好的で労働に敬意が払われる社会と、〈掠奪〉を軸とし非労働が有閑階級によって誇示される(「顕示的閑暇」等)ような〈野蛮〉社会との対比を踏まえていることがわかります。

勤労の世界、生産過程は、〈制作者本能〉が支配する機械的性格(技術者による調整を含んだ有機的な統一性)をもつのに対して、株式会社金融などによる〈不在所有〉が発展し、営利は機械的過程における調整の解体から生じるという捉え方において、営利は〈野蛮〉の徹底なんですね、たぶん。こういう捉え方には常識を辛辣に、あるいはからかうようにひっくり返してみせる痛快さがある。

「有閑階級という制度がその最高の発展を遂げているのは、例えば封建時代のヨーロッパや封建時代の日本のように、野蛮時代の文化が高度化した段階においてのことである」(前掲『有閑階級の理論』高訳)

たとえば、資本主義のなかにいる人間には、金儲けのための競争は人間の元来の性質なのだ、とする幻想を信じている人がいるでしょう。しかしこれは、マルクス的な言い方に近づければ土地所有が支配する封建制社会において土地所有のための殺戮、これが疑われるどころか褒め称えられるのと同じこと。すでに生産関係によって媒介されそれを前提にして存在していながら、媒介をうしない直接の起点となったブルジョア的原子、これに固執することに対して、社会的な全体によって諸主体が規定されていることを対置する批判性がヴェブレンのような議論の妙味ではあります。

「社会一般にたいして概して無益であったり有害であったりする事業……不生産的な仕事の収益は、他の仕事の総生産物から生れるものである。……産業的にみて寄生的な種類の企業の成長には限度がある。大部分の広告業や……寄生的産業の不釣り合いな成長は、軍事支出や……とともに、その社会の有効な生活力をいちじるしく低下せしめ……」(前掲『営利企業』小原訳)

これも寄生的企業への富の移転が社会的にはマイナスでありうるとする批判で、合理的経済人の主観と財という抽象からすれば無関心な問題を取りあげています。

新古典派的なものを批判する理論的制度派の思考って、「諸個人とは社会である」とか「諸個人はその基盤を社会とし、社会が進化する」とするもの。取引コスト論のようなものを新制度派とよぶこともありますが、そちらは原子論的社会観の修正版と見た方がいいでしょう。

ブルジョア的私人・交換する個人は、資本主義的システムを自己の媒介において定義するような能動的原理ではなく、その自立性はじつは非自立性なのだが、この自立性の内部にとどまるのが新古典派的発想。

制度派的捉え方もまた、その社会による諸個人の包摂は、現在の対象自身の対象を捉えるものではなく、生産関係によって捉えるわけではなく、原子論同様に定義されない前提なんですけどね。原子論の方はまず社会契約説。社会に先立つ契約主体としての個人を想定してもそれ自体すでに社会的存在であり、そうした個人の想定が社会的な約束事であることは実際的に知られているといえます。生れながらにして天賦人権を人間はもつわけではなく、人権は社会関係なのですから。「社会の実体は諸個人である」が人権論的想定といえそう。

とはいえ、人権論は、封建制社会において領主権力に従い、共同体に埋没して生きていた諸個人を解き放つ革命の思想的契機です。原生的共同体の支配から現代的個人の自立へ転換させた人権論は、今度は、個人から独立した社会的生産を批判する武器に転じます。企業や経済法則が個人を飲み込む全体である以上、人権論は王権の批判からこうした全体の批判に具体化します。批判対象の発展が人権を実在化するのだよ。

原子論は古典派経済学のなかの功利主義的想定としてもちろん弁護論的に機能します。孤立した個人を起点とする調和的市場観では、資本家も労働者もその物象的対立的諸関係を脱色されて、利己的主観的利益を計算する同権的主体へと漂白され偽りの姿で現れます。生産関係なき財と主観の関係の世界ですから、個人と一致しない社会はここでは存在しない、というか、社会ではなく個人のみが存在することになります。

諸階級は、孤立的契約において「日労働の価格」という不合理な観念において、〈労賃〉形態において、自由平等な市民として等質化されて現れます。地主も資本家も労働者も単に収入をもたらす物、源泉が違うだけで平等なのだという三位一体的幻想、三大階級の非階級化ですが、これはエコノミクスにおける調和的市場観の原型といってよい。金に社会的支配力を与えている生産の媒介が断ち切られた幻想では、自然物金に支配力の原因をみる。こうしたフェティシズムは、貨幣が利子をもたらす等々の三位一体的幻想にまで具体化しています。
by kamiyam_y | 2013-01-23 21:49 | 労働論(メタ資本論)