さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

古典派経済学(4) 古典派経済学の解体と現代批判

シスモンディ(1773-1842。『新経済学原理』1820)のフルネームはジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ。長い。ブラジルのサッカー選手の本名みたいだす(例えばジーコはアルトゥール・アントゥネス・コインブラ)

巨大資本を批判しつつも小生産を美化する後ろ向きなその姿勢によって後の時代にレーニンから反動的な「ロマン主義者」という扱いを受け、マルクス・エンゲルスの『党宣言』では「小ブルジョア社会主義のドン」呼ばわりされたわれらがシスモンですが、『資本論』ではブルジョア経済学の解体と没落の主体化として栄誉ある位置を与えられてもいます。

「……ブルジョア経済学はその越えることのできない限界に達してしまったのである。まだリカードの存命中に、そして彼に対立して、ブルジョア経済学にたいしてはシスモンディという人物の姿をとって批判が立ち向かったのである」(『資本論』第2版後書、マルクス・エンゲルス全集第23a巻、大月書店、S.20.)


フランス古典派シスモンディと対をなすイギリス古典派ディヴィッド・リカード(1772-1823。主著『経済学および課税の原理』1817)は古典派経済学の学的な本質の完成者。

古典派経済学がその頂点に到達することができたのは、産業革命を経ていない時代にあって資本主義的生産様式、資本主義的生産有機体の内的諸矛盾がまだ充分に展開されていなかったためです。「市民」的諸前提に立つ学者も諸利害の干渉から自由に冷酷な観察者として諸関係をとらええたというわけです。

「経済学がブルジョア的であるかぎり、すなわち……社会的生産の絶対的で最終的な姿として考えるかぎり、経済学が科学でありうるのは、ただ、階級闘争がまだ潜在的であるか、またはただ個別的現象としてしか現われていないあいだだけのことなのである。/……古典派経済学の最後の偉大な代表者リカードは、ついに意識的に、階級利益の対立、つまり労賃と利潤との対立、利潤と地代との対立を、彼の研究の跳躍点とするのであるが、彼は、この対立を素朴に社会的自然法則と考えることによって、そうするのである」(同上、S.19-20.)


資本主義社会体制を過渡的なものではなく歴史の完成と見る資本の知において、物象化された生産諸関係の対立的運動がまだ「潜在的」であるうちはこの知は科学でありえ、リカードは階級間の対立的関係を「素朴」に「社会的」な「自然法則」として研究し、古典派経済学を完成させます。リカードが『原理』「序文」で立てた課題は三大階級間の「分配を規定する諸法則を確定すること」(『経済学および課税の原理』(上・下)羽鳥卓也・吉澤芳樹訳、岩波書店、1987年)でした。

これを解き明かしていく原理としてリカードがスミスから継承し徹底しようとしたのが投下労働価値説。「生産された商品の交換価値は、その生産に投下される労働に比例する」という理解を原理とし、「効用」による価値規定論を廃棄し、スミスの不徹底を批判しながら、体系化された把握において、労働の熟練度、強度、「労働者とその家族の不要に要する食物、必需品および便宜品」一般利潤率、差額地代といった範疇の連鎖を彼は叙述していきます。

スミスに続く古典派経済学の思考において、スミスの資本主義理解に混在していた批判的・学問的性格と弁護論的性格とが分離したといってよいでしょう。前者はリカードという形をとり、後者は彼に対する卑俗な批判者という形をとって明快に分かれていきます。交換価値を需要によって説明し需要供給論に解消するロバート・マルサス(『経済学原理』1820年、小林時三郎訳、岩波書店、1968年)と、スミスにおける投下労働価値説の不徹底を批判するリカードとの対立は、現代の経済学的思考の座標軸を形成しているといっても過言ではなさそう。ちなみにロバート・L.ハイルブローナーがこの2人の思考を「陰気な牧師と懐疑的な実業家の極めて不穏な思想」(『入門経済思想史 世俗の思想家たち』八木甫・松原隆一郎・奥井智之・浮田聡・堀岡治男訳、ちくま学芸文庫、2001年)と呼んでいるのはちょっと面白い。

古い土地所有の支配を没落させ産業革命によって確立した産業資本による支配は、この新システムの内部の対立をも諸個人の眼前に示していくことになります。マニュファクチュアのなかから生れながらそれを駆逐した大工業は、機械の自動体系という協業に労働者を結合し、労働者を剰余価値の道具として自己に縛りつける資本の専制を完成。資本の自律的生活過程は周期的産業循環を描いて激しく運動し、過剰生産恐慌・生産力の周期的破壊としてシステムの有限性を垣間見せる。杉本栄一が「……資本主義体制そのものに含まれる諸矛盾が、リカァドォの予想したよりは、はるかに深刻であることが、その後の歴史の進行によって、明らかになった……」として「周期的恐慌」と「資本家階級と労働者階級との間の対立および闘争」を「古典派経済学の解体」の「事情」としてあげて論じているのはマルクスを踏まえた探求として1つ参考になりましょう(『近代経済学史』岩波書店、1953年、第1章第2節)

古典派経済学はピエール・ジョセフ・プルードン(1809-1865。『所有とは何か』1840-41)の「分業」の「集合力」論など社会主義思想に影響を残し、W.トムソン(1775-1833)らリカード派社会主義を生みだして終焉します。トマス・ホジスキン(1787-1869)の『労働擁護論』(1825)は、「流動資本は共存する労働にすぎず、固定資本も熟練労働にすぎないならば」(安藤悦子訳『世界思想教養全集5 イギリスの近代経済思想』河出書房新社、1964年、391頁)、資本がもたらすとされるあらゆる効果、利益はすべて労働のそれにほかならないと主張し、「個人と国民の両者の斬新的な改良を確保する最上の手段は、正義を遂行することであり、労働にたいして自己の全生産物を所有し享受するのをみとめることなのだ」(同上、392頁)と結びます(ホジスキンについては、末永茂喜『経済学史』三笠書房、1952年が1章を設けて論じているので興味のある方は参照されたい。同書は、大村泉・大和田寛・宮川彰編『『学説史』から始める経済学―剰余価値とは何か』八朔社、2009年において復刻)。ジョン・ロックにおいて私的所有が自己労働による私的所有として諸個人の自由の源泉とされたのに対し、資本の基礎としての大工業が確立した時点では常識的理解においてすでに資本家による私的所有は否定されるべきものに転じているのがわかります。

「経済学のすべての議論は私有財産を前提としている。この基本前提は、経済学にとっては、それ以上の検討をくわえられることのない、論駁をゆるさない事実なのである」(マルクス『聖家族』大内兵衛・細川嘉六監訳、マルクス・エンゲルス全集第2巻、大月書店、MEW. Bd.2, S.32.)

「私有財産の諸関係を、人間的合理的な関係としてうけいれる経済学は、その基本前提たる私有財産にたいし、たえまのない矛盾のうちに運動している」(同上、S.33.)


「私的所有」の展開が、古典派経済学という知的形態において「私的所有」の諸範疇の冷静な学的自己理解を産みだしたが、これは本質的にこの展開の内部にとどまる性格のものであり、古典派経済学の破綻は、「私的所有」の内部から超出する根本的な批判が客観的に要請されたことを意味しましょう。「私的所有」の展開があらわにする諸矛盾はさらに経済学的思考の形をとった社会認識を混迷に導いて、「私的所有」はその知的形態である古典派経済学の崩壊をみずから招きます。古典派経済学の破綻は古典派経済学の限界を超えるという客観的課題を指示しています。こうして、古典派経済学の批判として「私的所有」自身の自己批判的知が必然的に登場し、「経済学批判」という形をとって人類の実践的課題が提起されざるをえない。

古典派経済学の解体を経て、「私的所有」の内部にとどまらず「私的所有」の世界総体をその根源である人間の生産における自己対立に還帰して、自然の自己産出運動を自覚して把握するという人類社会の課題が提起されることになります。「私的所有」の「法則」にとどまる「ブルジョア的」思考を止揚する人類史的自覚の原理が労働の疎外として登場します。

「賃金の大きさは、はじめは、自由な労働者と自由な資本家の、自由な合意によって、さだめられる。あとになって、労働者はきめられるがままになることを余儀なくされ、資本家も、これをできるかぎり低くきめるように余儀なくされていることがわかる。契約当事者の自由のかわりに、強制がやってくる。……経済学者自身も、時おり、これらの矛盾に気づき、矛盾の発展は彼らの、たがいの論争のおもな内容となっている。ところが、これらの矛盾が彼らの意識にのぼってくると、彼らみずからが何かしら部分的なすがたをとった私有財産を攻撃する。……そのようにアダム・スミスは時おり資本家にたいし、デステュット・ド・トラシは両替商にたいし、シモンド・ド・シスモンディは工場制度にたいし、リカードは土地所有にたいし、ほとんどすべての近代の経済学者は非工業的資本家にたいして論争する」(同上、S.33-34.)


私的所有が過程の前提でありながら、私的所有はそれが想定している法的自由を現実的再生産過程の流れに置きこの法的自由の完結性をみずから破る物象的生産関係として実現します。引用文中経済学者たちがこの矛盾(取得法則の転回)に晒されるや否や「部分的な私的所有」を「攻撃」しだすって愉快ですね。

古典派経済学がマニュファクチュア全盛期というその生誕期における資本主義的社会システムの自己認識であるとすれば、これに対するマルクスの批判は資本主義的社会システムの現代の自己認識の最深部をなしています。私的所有という事実を動かぬ起点とする古典派経済学に対して、私的所有を自然に対して対象的に関わる人間の自己矛盾から導く総体把握は、古典派経済学が敷いた絨毯から出ることのない現代の知的諸形態の全体を包括して批判し続けています。
by kamiyam_y | 2012-11-24 21:18 | 資本主義System(資本論)