さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

市場原理主義批判としてのアダム・スミス

佐伯啓思『経済学の犯罪』(講談社現代新書、2012年)を立ち寄った書店で買い、さしあたり第5章が面白そうにみえたので読んでみました。

著者は「市場主義」的主流派的経済学(いわゆる「新古典派」経済学)を批判する立場を鮮明にとってます。この線上で本章は「市場主義経済学」の創始者としてのスミスという像を市場主義的虚像として解体することを試みています。

重商主義は「グローバルな商業」と「グローバルな金融」による「金銀の争奪戦」にほかならず、これに対してスミスは「土地に働きかける労働」から始まる「自然秩序」を対置した。この「自然秩序」においてスミスは資本投下が「農業」から始まり「製造業」にいたり「外国貿易」は最後に出てくると考えて、「不確実な諸要素」に富をゆだねる重商主義を批判している。イギリスでは当時「貨幣的利益moneyed interest」「貨幣的人間」と「土地の利益landed interest」「土地的人間」とが対比され、スミスは後者の立場から前者を批判している。おおよそこのようなことを著者は論じています。

スミスによるこのような重商主義mercantile system 批判には、差額追求による「争奪」により増殖する流通にとどまる資本が、やがて労働にもとづく富の生産を包摂し資本主義システムを確立するという展開もうかがえ興味深いかもしれませんね。

また、資本の本源的蓄積をうながす要因として植民地、貿易、租税制度・国債制度・中央銀行などが展開され、この流れを重商主義政策がある程度表現していることはいうまでもないでしょう。ちなみに、moneyedという言葉は、マルクスが現実的資本蓄積に対する貨幣資本蓄積についてmoneyed capitalという言葉を用いたことを思いおこさせます。

本書のこのスミス理解の当否をあらためて検討する余裕も力もないですけど、スミスが単純な市場主義者でないことは『国富論』を実際に手に取れば明らかなことです。当時の労働における健康破壊や特有の産業病までとりあげる豊富な歴史的記述と労働価値論という軸を無視して「見えざる手」を都合よく取り上げるのは歪んだスミス像というほかはなく、これによってスミスへの回帰を説くのは、敵対的グローバリゼーションを虚像を権威にして正当化することであり、低成長によってあらわとなった資本の国家の行きづまりの表現、世界市場的資本のイデオロギー形態というべきでしょう。
by kamiyam_y | 2012-10-15 22:03 | 現代グローバリゼーション