さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

グローバル銭湯 2

中国を旅してこないだ戻った人が「すごく楽しかった」と言ってました。

日本で風呂を楽しむ中国からの観光客もいれば(>グローバル銭湯)、中国で食を楽しむ日本からの旅行者もいる。日本の生産関係の成熟(>日本人民の・・・)だけではない。

殴られた日本人にネットで8万人の「ごめんなさい」。この『毎日新聞』の次の論説の最後の部分がいいですね。

上海交差点:8万件の「ごめんなさい」=隅俊之 2012年09月24日

平和の誓いは不可侵の大原則。

中国に行ったその人は「平和だった。みんなフレンドリーだった」と語ってました。当然でしょう。中国において帝国主義打倒というタテマエのもと政権への不満の捌け口が集団行動となり、それに乗じた粗野で野蛮な、資本主義による陶冶を経ていないかのような一部の暴力(窃盗!)が現れたりしたとしてもそれが恒久的普遍的事実であるわけがない。マスコミは平和な日常ではなく、センセーショナルな映像を繰り返ししつこく流しますから、それが一人歩きすると、想像力や考察力に欠けている人々においては、実践的・客観的なイメージ形成が妨げられます。

人権という表象上の共同体は、物象化された現実的な共同体である企業の諸連関、再生産過程の物象的世界の力に衝突しますが、これは生きた個人の自己分裂です。個人の普遍性がその表象性を脱し、現実的な共同性が個人の普遍性の客体化として完成することが、この分裂の示す課題です。暴力として発現する国家という共同性も、個人に包摂され、諸個人が自身の延長として制御する客体的普遍性へと変容しなければなりません。人権による企業の制御は、人権による国家の制御と不可分です。

中国においてもむろん人々は国家と個人を区別してふるまいます。国家という幻想的な共同体と現実的な生きた諸個人を区別するのは、平和な日常において通常の正常な行為なのですから。人間の普遍性は国家を超えて存在している。

排外主義的暴力を人民が全力をあげて根絶すべきであるということは、生きた個人1人1人を原点とする近代的理念に即しても大原則。

近代という分裂状況において、唯一といってもよい価値観、社会的正当化の共通の仕様は、国家と人民を区別し、国家は人民に由来してのみ正当であるというものであり、個人が社会の正当な主体とされるということです。しかしながら、分裂状況は、たえず近代以前ともいえる局地的幻想や、国家という全体による個人の簒奪をもたらします。国家でなく企業と企業の個人を区別できないふるまいすら私たちはいまだに止揚できていません。全体主義はつねにそこにある。だからこそ、私たちは生きた個人の尊厳という価値観の基盤にたえず立ちかえる必要があります。

23日のNHKスペシャル「対立を克服できるかで」で(その時間、ETV特集「シリーズ チェルノブイリ原発事故・汚染地帯からの報告 第2回」をメインで観ていてたたまたまチャンネルを変えたときにですが)、韓国の女の子がインタビューで「騒いでいるのはどちらの国も一部の人だけ。私は深刻に考えていない」という趣旨で答えていました。

「一部の人」ではないふつうの人々は、生身の人間どうしがじかに顔をあわせるということがなくても理解しているのであり、客観的に俯瞰できる力を発揮しており、想像力・共感力を人間的に用いているわけで、はじめから直接に、国境を越えた普遍的な存在といえましょう。

ふつうの人々は、幻想的国家と実際的人間を区別し、国家権力と人民・人民の生活を区別し、対立的な国家的共同性と生まれ育った社会への愛着とを区別し、国家的幻想と現実社会に暮らす人々とを区別し、疎外された組織とそのもとで矛盾を生きる個人とを区別できてます。

追記 かつて戦争の惨禍に苦しんだ諸国がその反省をふまえて1つのEUを形成しているのに比べると、東アジアはなんて遅れているんだと思わざるをえません。とはいえ、このアジア的分裂状況を大きく規定しているのも後発的諸資本主義の地域間格差のように思えます。経済的依存関係の深化によってもまだ乗り越えられていない。またやはり西欧が王権と民衆との対峙を軸とした社会形成を通じて社会的対話や民主主義を発展させてきたという環境もEUの努力を支える要因として大きいような気がします。
by kamiyam_y | 2012-09-25 20:16