さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

マルクスの未来社会:大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』によせて(2)

こうして労働する諸個人において資本のシステムは自己を批判する意識です。資本のシステムの真相を諸個人は見抜く。革命的です。内奥から遊離した表層があってそれが内奥を隠す表層という2世界の棲み分けが永続して資本が永続する、というようにはならない。資本による物神崇拝の不断の完成は、物神崇拝の不断の突破でしかない。労働する諸個人はまさに現システム止揚の、意識する担い手となっていく。未来社会を孕み産みおとすのは資本のシステムそのものなのです。

対立的な形で未来社会を潜在的に産出しつづけその自己を解体するのは資本主義そのものなのです。未来社会は資本のシステムにおいて産まれ、資本のシステムをその狭隘な外皮として突破するまでに成長します。諸個人がその産出を担い旧システムは眠り込む。

資本のシステムの秘密を諸個人はそのシステムの展開のうちに見抜く。

資本主義はますます社会を解体し人間を堕落させ窒息させて終り、なのではありません。そうした悲観物語は理論的にはさきの対象把握と理想の二元論の1つの帰結にすぎません。変革への悲観論というものは、個人の振る舞いとしては、他者にケチをつけて優位に立ちたいコンプレックスを隠しもっているとか、自己の劣化に気づかなくことなく出しゃばって人の足を引っ張るインテリの自己確認であったりとか。理論的には二元論。資本主義美化論の裏返し。

「現存社会主義」はそんなこと言ったって社会主義で、市場を導入しつつ資本主義国に反対しているじゃないか。公有・計画から、新たなシステム、社会主義市場経済に方向転換したじゃないか。そう思う人もいるかもしれません。「現存社会主義」の諸国は「市場」を導入しながら、資本主義からの離脱を果たしつつある、あるいはより発展した社会主義へと進歩しつつある。どうなんでしょうかねえ、そういう考えは。

確認しておけばもちろん、高度な資本主義であれ、途上国であれ、「現存社会主義」であれ、世界の諸個人の変革のチャレンジ、努力、熱意、工夫は有機的に結びあい、理論はそれを鼓舞する批判的営為であります。そのうえで、「市場」について簡単な指摘だけしておきましょう。

商品は、総体的に発展すれば、価格変動と流通によって、生産手段と労働力を配分するシステムです。商品のシステムは、交換価値による総労働の規制という物象的な生産関係のシステムです。直接には私的諸労働に参入する諸個人に対して、かれらから独立しかれらを翻弄する社会的力の運動が商品のシステムです。

このシステムはその中身が資本のシステムとなることで生きています。資本とは大量商品でありかつ大量貨幣であり、瞬時に両契機に移行している運動。それは労働力という商品によって価値増殖実現しますが、それも労働力がたえず生産物(生産手段・生活手段)・対象的諸条件から分離し、これら生産物がたえず資本の商品形態として存在しているからです。現在の商品大量は、疎外された労働、賃労働によって不断に息を吹きこまれ運動している資本のシステムの自己形態以外のなにものでもありません。労働する諸個人は労働の実現諸条件から分離しており、この分離を資本の再生産がたえず再生産することによって、商品のシステムも全面的となり生きています。

資本の商品生産物の市場価格の変動を介して、利潤を介して、競争する諸資本の相互関係において、資本の社会的配分が実現し、生産手段と労動力の配分が規制されます。全面的な商品流通である市場は、諸資本がおりなすシステムの自己形態です。生産手段と労働力の社会的配分は、価格の運動に屈折した諸資本の運動によって物象的に、非人格的に実現しています。

というように(舌足らずですけどまあ)、「市場」の根源的把握は、資本の理解、商品と資本の理解につきるというわけですね。

現代の把握に内在する未来社会論について世界的運動の一分子となりたく考えてみました。

さて、本書は、現在のシステムが孕む《胎児》がどのようなものであり、それがどのような成人になろうとしているのか、マルクスの全テキスト群から詳細に引用を行い立証しマルクスのアソシエーション論を摘出しようとする労作です。

で、先日著者の大谷氏をお招きして合評会を開催しました。多くの質問が出され有意義な研究会がもてたと思います。著者からなされた貴重なリプライのなかから、1つだけ記しておきましょう。

それは、modernという言葉についてです。次のような趣旨のご説明でした(どのような質問に対してなされたのかは省略)。

マルクスは「モダン・モデルン」をよく使うが、そこでどういうことを考えていたのか。既訳ではこれが「近代」と訳され、それでは落ち着かないところだけ「現代」とされている。しかしマルクスは「modernなブルジョア社会」という表現において「現代」という意味でこれを使っているし、『資本論』第1部第25章「modernな植民理論」もそうである。

モダンは「近代」と読まれることが多い。日本史ではあるところから「近代」から「現代」になる。ウィキペディアでも現代の前の時代を、古代、中世に続く「近代」としている。

このような「現代」の前の「近代」という意味で読むことは、資本主義そのものが変る、と考えることである。マルクス経済学では従来、国家独占資本主義、グローバル資本主義などと論じられてきたが、それは「いつから」という議論なのであった。

これに対して、マルクスは「最もmodern」とはいうが、modernのあとには区切らない。

modernは、「近代化」「ポストモダン」というようにもちいられる「近代」ではない。

一定の社会的生産有機体がたえず生きているかぎり、たえず「現代」なのである。現代をmodernというならそれはマルクスのmodernなのである。

こういう内容のご発言だったのですが、面白く思いました。

「近代」と理解したばあい、「現代」がそれに対するものとして想定されています。この理解が資本主義の時間的輪切りという形をとったのが資本主義の前後2「段階論」であり、これはマルクスの資本主義空間を私たちの資本主義空間から切断する役割をするどく果します。マルクス経済学が理論において現状肯定に陥ってしまうというどうしようもなく皮肉な理論的迷走。

こうした「現代」は「近代」の「最も」発展した姿ではなく、「近代」の後に来る「現代」という抽象物なのであります。資本主義の段階変化論は、資本主義という社会的生産有機体が定義する時間を無視して、恣意的に主観が区切っているだけ。資本主義はその自己再生産によって同一の生命的循環であり、かつ発展しますが、この発展が否定的な自己実現であり、有限な性格を露呈します。発展は「段階」じゃあないのですね。

大学生の頃、マルクス経済学のテキストでよく「国家独占資本主義段階における~~」という枕詞が出てきたのですが、うそくさいと思ってました。マルクスを読んでも彼はそういう問題の立て方をまったくしていないので。

資本主義を前後に二分する。そうすると、こんどは後半部分を二分割する。2分の1→4分の1→8分の1。まったくもってわけがわからなくなりますね。

19世紀の理論、20世紀の理論、21世紀の理論。これまた20世紀後半の理論、21世紀初頭の理論、とつくりたくなってしまう。

これでは理論は、生きた存在の根っこから切り離された事実を無批判に後追いをして説明する虚しい行為。それがあるからある、という確信。非実践的なオウム返し。

そもそも理論ってつくるもんじゃないです。

こういう抽象的知の悪循環に気づかずに素朴に「段階」が語られるばあい、セットとして、「現実」なるものが素朴にまた便利な言葉として持ちだされたりします。「理論」は座して行う空想で、自分にとって見たい、またはたまたま見た事実に立脚して「現実」と称した抽象をふりかざすというように。そうした研究大家的そぶりの背後には、ある「事実」を選ぶユニークな思考の持主たることを自慢する卑しい動機が潜伏しているようにすら思われます。

そうした非実践的、観想的態度に対して、実践的・革命的・批判的なのは、一定の社会的生産有機体をたえず再生産している1事実、すなわち現在の本質的矛盾においてたえず諸個人が行っている労働、これにもとづいて把握することです。本書が立脚点として強調するのも「労働にもとづく社会把握」なのでした。(完)
by kamiyam_y | 2012-06-26 07:30 | 資本主義System(資本論)