さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

マルクスの未来社会:大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論』によせて(1)

久々に風邪ひいただす。疲れてるのに中島公園の祭りに行ってそのあと家で眠るときにも、気温が上がってきてるので風邪ひかねえよおれは、とおもって油断してたら、翌朝鼻の奥が乾いて倦怠感に襲われました。でも経験上マスクして暮せば治る程度のものだと感知しそのとおり、もう治った(かな)。明日からは北海道も雨で寒いらしいじゃないですか。台風4号のせいらしく。

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マルクスに学びその未来社会論をつかむことは、生きた現代世界そのものの、私たちの人類そのものの、私の本質そのものの巨大な運動です。その微細な1分子たらんとして、マルクス的把握において未来社会論がまさに現代社会の把握にほかならないことを少し考えてみます。

なによりもまずマルクスの知的苦闘の対象は、今現在のシステムなのであります。

現在が未来を限定する。これは労働の実践的ありかたの1つの発現であり、巨大な変革のうねりも労働の発展です。

マルクスのこの格闘、現在のシステム把握は、その総括において大きく人類史を示します。それが「否定の否定」の構図。

疎外という産出過程をその頂点にまで高めるのが現在であり、そこでは、諸個人がその個別的自己から普遍的な自己(自然・社会)を分裂させ、その疎遠な力のもとに包摂されて、この普遍的な環境をつくりだしています。全面的に飛躍的に、エネルギッシュに。

自然から産まれおちた人類は、形成途上のシステムとして、自然発生的に、疎外された普遍性の能動化を介してまとまっている。生産する諸個人は自己に疎遠に対象を生みだす。生産の対立性が人間の諸力を、社会を形づくる。この過渡的ありかたを完成しているのが現在です。

現在という矛盾の運動は、それが止揚した、生まれたばかりの人類の起点を普個の直接的な一体性として私たちに想起させ、未来を指向してはその自己否定的自己存立において、現在を止揚した人類社会を示します。マルクスが論じるのはあくまでも現在のシステムにほかならず、未来社会も、現在のシステムがその大枠を規定している総体の性格においてのみ述べられています。マルクスはこの点厳格に禁欲的。

マルクスが記述する資本主義後の社会は、対象認識とされたものの外部に接ぎ木された単なる「理想」なんてものではありません。彼の理論的格闘は、理論から価値観やイデオロギーを分断・二元化して主張する態度を徹頭徹尾退けています。

マルクスの未来社会記述は、未来システムの具体的諸分肢、具体的諸形態を描く夢想ではありません。現在の資本主義から離脱した資本主義後の具体的な諸関係は、新たな社会的生産が限定していくもの。その限定において自由とでもいいましょうか。可能性を閉じるようなことはしない。マルクスは未来社会の具体図を、現在の自己(生きた総体)の徹底という以外に細かく描くようなことは一切しないんですね。それをしたら、実践的認識から分離した夢や願いに等しいものになってしまいますから。

社会的生産有機体としての生きた社会システムが、その根源の労働のありかたを変え、新たな有機体へと転化するとき、その有機体の諸器官・諸姿態は、古い社会から受けついだものの転換だったり、新たに生みだされたものだったりします。多様な諸関係をその姿態にしていきます。未来社会の具体的な諸姿態もまた、新たな総体の性格のなかで総体が受け入れていくもの。現在のシステムの通過点性をマルクスが論じていることを論じているのに、未来社会の細かい具体図がないことをもって批判した気分になる、そういう態度もよくみられますが、それって実際は自分の空想性を他者に反映させているだけなんですよ。

あくまでも資本主義の否定性においてのみ未来社会・「社会主義」はとらえられるのであって、この否定性において私たちは資本主義が対立的にその内部に実体的に産出する人類・未来社会を透視することができる。

資本という分裂した自己において対立的に社会的生産過程が世界的交通において成立し、諸個人が社会的・世界的な諸個人として成長していくという巨大な進歩を、マルクスは資本主義のなかからつかみだして離しません。この壮大な発展・成長の歩みは、まさに資本主義をも自らの限界として突破していくような動的な産出にほかなりません。

現在のシステムである資本主義、これこそが唯一の理論的把握の対象であり、この把握こそが、未来社会をとらえる尺度となりえます。またこれが「現存社会主義」を把握する尺度でもあります。現存社会主義を社会主義と定義してそれに付随する「事実」を集め理論をつくりましょう、という話では断じてありえません。それは恣意的な観点が陥る非実践的な堂々巡りでしかない。

このシステムの運動は、人類史の疎外をまとめあげつつ完成した人類社会を産出するという、独自の強い意味での過渡的秩序をおりなしています。生きた矛盾のシステムの完成態であるがゆえに現在のシステムは、その内在的矛盾の止揚である未来社会の形態化を指し示します。新社会の産み落としという未来を明示します。現システムを超え出る新社会の出産を指示します。

未来社会の受胎、出産をマルクスが記述するのは、現代という矛盾のシステムに即してです。

彼のテキストにおいて、未来社会を表す用語は、社会主義、共産主義、社会的生産とかもありますけど、その多くが「アソシエーション」とそれに近い用語です。いろんな訳語があるために、同じ用語であることがわかりにくいのですが、「アソシエーション」です。自由な諸個人のアソシエーションです。えっ、生産手段の社会主義的所有じゃないの?社会主義国家の計画経済とか、共産主義の人民的所有とかじゃないの?これだけでも私たちの俗物的な常識は正しく転倒されてしまいましょう。

大谷禎之介『マルクスのアソシエーション論-未来社会は資本主義のなかに見えている-』(桜井書店、2011年)http://www.sakurai-shoten.com/content/books/074/bookdetail.shtml

本書はマルクスのテキスト群から、恣意的な抜き出しや訳語の当て方を避け、丁寧に彼が未来社会をどのように呼び、それがなぜなのかを論じています。

個人から分離した全体の力ではなく、あくまでも主体は個人。アソシエーションのふつうの用法にもそれはあります。会社や協会、連合とか。個人を飲み込む自然発生的共同性ではなく、個人の意識的・自覚的行動が生む共同性です。

資本主義の否定を成し遂げて社会的生産過程を自己のものとして制御するのは、自ら意識的に結びあう「アソーシエイトした」労働する諸個人。

諸個人が「アソーシエイト」して生産過程を制御することによって再建されるのが、「個人的所有」のもとに潜在していた個性の自由な発展。新社会が復興するのはまさに個人の発展です。

諸個人は私的労働を止揚して、生産関係を人格的・協同的に媒介し、個別的自己の力を1つの社会的力として意識的・自覚的に支出する。諸個人は賃労働を止揚し、労働の実現諸条件との分離を止揚して、それらを自己のものとします。自己から自立し他者化した自己の普遍性に包摂されるのではなく、諸個人がその普遍性の対象化を自己に包摂する。社会システムの真の根源的実体である自然=個人が生き生きとした主役となります。

「現存社会主義」なるものをみれば、いうまでもなくアソシエーションは実現していませんわな。そこでは、諸個人は疎外された労働を行い、諸個人から独立した力が「国有化」「計画」という名称のもとに、諸個人の疎外された労働を吸収し、それを覆いかくすシステムが成立していたというほかない。

資本主義的生産は、その歴史的任務である生産諸力の発展を世界市場の展開において遂行し、その文明化傾向を貫いて、諸個人を世界史的諸個人に転化し、労働する諸個人を社会的に鍛えあげます。資本の社会的生産の本体は諸個人の社会的生産であり、資本の生産力の本体は諸個人の社会的労働の生産力である。このことを資本のシステムは露出します。資本は、資本のものである社会的生産を、直接には他者においてある社会的生産を、われらの社会的生産と見抜くような意識を生みだす。資本の自己増殖そのものが、諸個人の社会的生産を阻害するもの、諸個人の発展を阻害するものとして現れており、資本のシステムは、自らの限界を露わにし諸個人にそれを自覚させるのです。対立を通して諸個人は自らの社会的諸力の奪還に向う覚醒した主体に転化するのです。(もう一回続く)
by kamiyam_y | 2012-06-20 00:40 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)
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