さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

人為的な不透明さ

原発事故の会見中継について五木寛之が「わざと理解できないように言葉を使っているとしか思えない」、「記者席から批判の声があがって当然なのだが〔中略〕静まり返って、主催者に促されてぼちぼち質問がでるというのは、なんともいえない脱力感を覚えさせられる光景だった」と記しています(「流されゆく日々」8665回『日刊ゲンダイ』3月15日・発売14日)。

少ない手がかりが発表されるだけでそこからテレビの解説者が推測しなければ説明にならないような会見はその公共的使命を果しているといえるのでしょうか。元東芝技術者後藤政志は「専門家がほしいのは数値です」「なぜこんなに発表が遅いのか。国民が被爆の危機に瀕しているのにとんでもない話です」と怒りに満ちたコメントしています(『日刊ゲンダイ』が『日刊ゲンダイ』3月17日・発売15日二面)。人民が被爆してしまうかもしれない緊急事態なのですから一刻も早く、正確な情報を流すことが死活問題というべき。

人が近づけないため不明な点が多いというのを仮に認めるとしても、客観的なデータに支えられた科学にもとづく事態の説明は可能なはずです。「混乱を避ける」という建前によって客観的な情報を公表しないのであれば、それこそ社会的な知が集結し発動することを妨げ、人的被害を拡大するのではないでしょうか。縦割りされた政府・官僚の匙加減ではなく、共同体組織としての民主的で公開的な活動こそ人々がその力を合わせるために必要不可欠です。

縦割り行政を廃棄し諸個人・諸組織が聯繋しなければならないのは、被災地に有効な支援、物資供給を行う上でも同様。発展した生産諸力を有機的に連結し、被災した人民に生活諸手段を提供しなければなりません。

被害を小さく見せようとすることは、被害の拡大や実態の把握によってきわめて不誠実な印象を与える結果となります。保身を図り釈明に終始する答弁が事態の好転を招くことはありません。枝野官房長官も、電力会社も、事態が被害の最も小さくてすむ経過をとればよいとする願望を科学的・客観的認識であるかのように語っていたのでしょうか。政府と電力会社の対応は、不祥事発覚後に不誠実な処理を試みて倒産する企業を思わせました。

保身と責任回避かどんな利己的動機による混乱か分りませんけど、諸個人の安全の確保にとっては、客観的な情報の公開とともに、予期すべき最大限の危機を想定した対処が原則でしょう。「大きめに避難地域を指定する。それを徐々に縮めていく。危機管理の基本です」と民主党議員が述べています(『日刊ゲンダイ』が『日刊ゲンダイ』3月17日・発売15日一面)。情報を示さず危機を小さく見積もって、避難対象地域を後追い的に拡大することは事態のさらなる悪化につながりかねない。

資本の運動という無政府的・自然発生的・物象的な土壌の上で政府もまた無政府的性格・非公共的性格を帯びますが、その制限を突破して、人間が人間的でいられるような、人間社会という土台を築いていくことが真に求められています。諸個人の民主的な協同と連帯がこの分裂した現代を超えていく唯一の道です。諸個人の人類的本性の客観化が人類的不幸において切実に要請されています。公開しながら隠蔽し、隠蔽しながら公開する無政府的な政府のありようは、堕落した労働形態、非人間的な意識形態を引きずり出したりもしましょうが、私たちはそうしたありように屈することなく、連帯を深め力を結集していかねばなりません。
by kamiyam_y | 2011-03-17 00:02