さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

科学にもとづく民主的な規制を

間接的にとはいえいまだに連絡が取れないとか聞くたびに胸が痛みます。

学生から「北海道だけ何もなくてやりきれないです。募金したいんですけど、怪しい団体はいやじゃないですか。やっぱ赤十字ですかね」と言われ、「郵貯で送ればいいんじゃないかな」と答えておきました。

http://www.jp-bank.japanpost.jp/kojin/tukau/fukusi/kj_tk_fk_gienkin.html

讀賣の号外で午前6時すぎの爆発を今朝知ってその後ネットで讀賣の速報を見ると放射線量が一都四県で過去最大なんだと。すぐに関東の親戚に電話しました。

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20110315-OYT1T00552.htm?from=top

讀賣からもう一つ。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110315-OYT1T00160.htm?from=main4

三号機周辺の観測値毎時400ミリ・シーベルトは40万マイクロ・シーベルトで、この讀賣の図では10万マイクロ・シーベルト以上の被爆では癌発生が増大するとされています。原発で働く労働者の命、近隣で暮す住民の健康、被害が最小限ですむことを心の底から祈って止みません。

http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110315dde001040007000c.html

水中になければならない燃料棒が露出してしまうといういわば破滅的な危機に瀕して、海水注入という手立てはとても原始的にみえます。安全性確保のための何重ものしくみがあるというのが少なくともタテマエではなかったのでしょうか。技術の核の部分で制御困難な事態が発生するなんて、原子力発電設備の技術としての完成度に不信感を持たざるを得ません。

電力会社と政府の管理責任について今後徹底的に追及されなければならないことは言うまでもないでしょう。制御不能に近い状態に陥ってしまう技術のありかたには根本的に疑念が生じます。透明性と公開性を原則とする民主的な管理体制のもとでのみ安全性は確保されると考えますが、今回の情報提供のありようには、全くもって不誠実という印象を抱かされますね。

2003年から2010年に志賀原発で発生した事故を分析した児玉一八「北陸電力・志賀原子力発電所の事故分析」(『日本の科学者』2011年2月号)は、「原子力発電技術は未完成」(42頁)として、事故頻発にある要因として「規制と推進の分離」がなされていないことを指摘しています。「規制」を担う「原子力安全・保安院が開発推進の官庁である経済産業省に属している」(47頁)点にこの分離の不徹底は明らかであると。

分かる気がします。そもそも縦割り行政で各官庁が縄張り拡張を目指しそのもとで民の資本蓄積が行われる日本的追いつき体制、キャッチアップシステムはもはや時代遅れで弊害あるのみであって、それが原発行政にも露呈しているように思えます。日本型開発独裁とでもいってよさそうな、国家主義的・中央集権的でなおかつこうした分断的な開発はあらゆる面で立ちゆかなくなっているのではないでしょうか。市民一人一人を主体として前提し公開性と透明性を原則とする民主的管理ではなく、官僚の匙加減に公共的規制の実現を委ねるというこの日本の後進的な体制はもう要らない。官僚の恣意的裁量を介した成長第一主義は、廃棄されねばなりません。

海外のメディアの方が客観的に伝えている可能性もあるかもしれないと思い、チェックしてます。読み切れてないですけど、BBCのサイトも詳しく報道してました。

http://www.bbc.co.uk/news/world-12740843

IAEAのサイトでも400ミリ・シーベルトとありました。

http://www.iaea.org/newscenter/news/tsunamiupdate01.html
by kamiyam_y | 2011-03-16 00:28 | 民主主義と日本社会