さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

限界limit/Grenzeとしての資本主義capitalism /Kapitalismus(4)

しばらくぶりです。暑くてサバンナで昼寝してるライオンみたいに動けず、コンビニ弁当も冷たいまま食べて暑さをしのいでました。でも昨日今日と雨で涼しい。

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数日前に、干してあった形態安定シャツにシワをみつけてのでハンガーで吊したままアイロンを当てていると、アイロンが手首に触れてしまいました。反射的に腕を引いたら、数分後に10センチほどの赤い直線が線が浮きあがってきました。

そのあと、100円ショップで「アイロングローブ」という商品を発見。干したままでアイロンを当てるためのものが売られてるんですね。パッケージにわざわざ火傷に注意とあります。私の火傷はひっかき傷にしかみえないですけど。あ~、かゆい。

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半年以上前ですが“キャピタリズム”を観ました。

http://www.capitalismalovestory.com/(リンク切れ)

Michael Mooreのooは、口をすぼめたウーではなくて、オーにきこえます。どうでもいいことですけどね。

フリント, MI, USA

アメリカ合衆国の資本主義capitalismは、現在の生産関係の最も発展した部分です。映画“Capitalism”でマイケル・ムーアが故郷フリントの工場労働者の哀しみに光を当て、マネーゲームを笑い飛ばすその批判精神に、アメリカ合衆国社会の生きた悩みをみることができます。対立性とは生みだすための過程です。逆説的にですが、アメリカ合衆国という場を得て自分を自由に発展させたcapitalismの躍動を、そしてそこに対立的な形で、社会づくりを行っている人間たちの偉大さを、感じ取ることができる。

印象に残った場面を一つ一つ挙げておくのはやめておき、一般的な言葉でメモだけしておきます。サブプライム問題が勤労大衆からの生活手段の収奪であったこと、マネーゲームが利益至上主義の生産体制に弾力性を与えること、しかし、それが同時に架空的であり収奪を進めること、宗教は現代社会では商売同様私事となるし特定宗派は地域を出ないものであるとはいえそれが飽くなき利益追求という転倒性と一致しないこと、富裕層の存在を個々人の努力として説明するアメリカンドリームが貧しい人々からの収奪を隠すこと、憲法世界の内部には資本主義が存在しないこと、いいかえれば、資本主義が合意によって成立するシステムではないこと、一人一票で経営者を選ぶような民主主義への欲求が個々の企業内にも発生すること。

マイケル・ムーアの映画では巨大企業に突撃取材する“THE BIG ONE”も、資本主義的企業と賃金労働者の対立、資本主義的グローバリゼーションという同じテーマを扱っているので関心のある方は見たらいいとおもいます。とくにナイキの会長とのやりとりが笑えます。

ムーアのサイトには映画の註ともいうべきコーナーがあってこれも便利。

http://michaelmoore.com/books-films/facts/capitalism-love-story (リンク切れ)

さて、映画のタイトルはcapitalismですけれど、『資本論』の冒頭に出てくる言葉は、capitalist mode of production、資本主義的生産様式です。

たとえば、ネクタイをしない大人の男性を、反ネクタイ主義と名づけるとしましょう。この名札は、ネクタイをしないというこの個人の運動様式を指示します。者をつけて、反ネクタイ主義者といえば、このような運動様式をその主体において捉えたことになりましょう。

この反ネクタイ主義者は、たまたまネクタイを忘れた人ではなく、この運動様式を不断に反復することにおいて存立します。さらにいえば、貧しいので節約しているとか、単に無精だからとかいった消極的な理由ではなく、この反復運動を目的意識によって規定して行うのが積極的な意味での反ネクタイ主義者となりましょう。条件が変わるとネクタイ主義者に戻るような無党派的ノーネクタイであってはならない。ネクタイを企業社会・管理社会の象徴ととらえるイデオロギーにもとづき造反有理の精神をもって行動する反逆者がこの反ネクタイ主義者。

独身主義者といったばあいも同様に意思の存在が想定されていて、堕落主義者ということばをつくるとすればこれも一所懸命堕落しようと努力する精神性が貫かれていそう。コンシューマリズムはどうですかね。消費者の権利の重視ですが、消費者主義者というと者が二度もあってくどい。消費主義者と訳すとただの浪費家。

資本主義者という表現は可能でしょうか。確固たる資本主義への信念というものがもしもこの世界に存在しうるとしても、反ネクタイ主義者が反ネクタイ行動をとるのと同じ意味で資本主義者の観念が資本主義をつくりだす、とはなりません。反ネクタイ主義と反ネクタイ主義者とは相互依存的(もっとも個人の反ネクタイ主義もかれの生活諸条件の産物ですが)。信念は、資本主義という体制をまとめあげて再生産する根源的な活動ではなく、資本主義を前提し、それに依存した関係にすぎません。

資本主義者という言葉から思い浮かぶのは、金の亡者、拝金主義者くらいです。資本を自分の魂とする主義者。貨幣増大の主義者。利己的視野だけですね。普遍的な視野と信念をもった資本主義革命家としての拝金主義者は存在しようがない。資本主義は、非自覚的な生産発展であり、合意されて計画的に遂行されるものではなく、協同的生産とは正反対の無政府的生産であり、不透明化された生産であり、神秘の衣、転倒的幻想に覆われます。利己的視野とはこの幻想を受動的にもつことです。

資本主義という運動様式を規定する目的は、意思ではありません。断言すれば、剰余価値を目的とする生産は、社会をつくりだすという目的を生産の運動として与えられています。社会の種差は生産の運動様式が定義するので、資本主義的生産様式は資本主義的社会システムをつくりだします。資本主義的個人が生産するから資本主義なのではなく、資本主義的生産が社会を資本主義的に変革し、諸個人の人間性を資本主義によって変革していくんですね。

fuedalismも封建制と訳すのですから、capitalistを「資本制」と訳すのももちろんよいことだと思います(資本家的と訳すのはどうかと思うが)。考え方という意味での「主義」と混同しないために、体制概念であることを明示するためにこう訳すのも手。

拝金主義者としての資本主義者より少し拡げて、消極的な意味での資本主義者、資本愛好者もありえます。貨幣崇拝ということであれば、資本主義社会で暮らし貨幣に依存する私たち誰もが、そもそもそういう側面をもたざるをえないです。貨幣を愛してはいなくても、行動は貨幣に依存しています。ちょっぴり資本主義―者ですね。

転倒的貨幣崇拝からは、資本主義の弁護論を信奉するということも出てきます。資本主義的生産関係は、自身を追認して、それを永遠不滅の人類の真理、自然の秩序とみなすさまざまの正当化の意識形態、体制弁護論を分泌しするのですから。生産が奴隷制をその内部に取り込めば、奴隷制を美しいものとして描く人があらわれ、生産が封建制であれば封建制の道徳が充満する。これと同じです。

また、特定の生産様式の没落においてはこの生産様式を批判する観念がこの生産様式の一姿態として定着します。対立的生産の完成としての資本主義は、こうした批判を、資本主義が生みだす自覚性の主体による批判として展開します。資本主義の確立はその反転であり革命的。

市民が擡頭し封建的諸勢力を打破したときに生き生きと作動した人権や民主主義といった観念は、資本主義において具体的対象を獲得して展開し、賃金労働者諸個人の武器になります。交換は人間を法的自由を持つ者として規定しますが、この自由が団結禁止法のように労働者を抑圧するための法として持ち出されはするとしても、結局のところ搾取の自由という自由は法的自由の否定ですから、資本主義の発展は対立性を露出します。

貨幣崇拝の転倒は、三位一体的幻想において完成します。所得は生産の結果ですが、これが、生産の連関から切り離されてしまう。利子を取る観念上の理由がその発生の源にすりかえられてしまいます。資本所有が利子を生みだし、土地所有が地代を生みだし、労働が労賃を生みだす。この祝福すべき図式において、3大階級は等しい原子に還元されている。対立性を隠蔽するこの観念を、資本主義を弁護する資本主義者の意識と呼んでみることもできるかも。

資本主義弁護論の現代的な2局面は、市場原理主義イデオロギー・市場万能主義と、それを補完する成長主義的国家主義です。新自由主義的市場主義とケインズ主義的市場主義とかいろいろいえそうですが、弁護論たるもの、資本主義を自覚して推進するものではなく、資本主義の分裂的運動の無自覚で受動的な反映でなければなりません。

資本主義の限界は公開されています。自覚的主体は、この限界を自覚的に知る者として、資本主義の眠り込み(止揚)を進めていく主体です。資本主義の展開が資本主義の不断の止揚であるとすれば、資本主義の力を、資本主義の成果を奪還しようとする革命的自覚的主体は、資本主義を推し進めようとする点で、また資本主義の本体を自覚している点で、(これこそ)資本主義者といえるかもしれません。資本主義を乗り越えようとする主体は資本主義者たることを否定保存している。

資本主義の止揚は、資本主義の発展を大前提にしています。

「社会主義者たちが、賃労働によって生みだされた社会的生産諸力の、このより高度な発展を前提していないとすれば、どうして彼らがより高度の要求をするようになることができようか?」(「バスティアとケアリ」『資本論草稿集』1、大月書店、S.14.)。


資本主義は生産を発展させたからすばらしい!とわざわざ言わないのは、「同義反復」(同上)だからです。資本主義が生産を発展させたことが資本主義を超えることを否定するのではなく、逆に資本主義を乗り越えることの前提になるなんて、まあ当たり前の話のはずですが。

資本主義といえば、現在のグローバル資本主義、金融資本主義なんて言い方もしますね。中国の一党政治資本主義(そんな言葉はないけど)という表現も、可能。これは資本主義システムのある局面を指して言っています。比喩ないし分類です。産業革命以前の商業資本主義なんて言い方もあります。

しかし、現代社会の基礎である資本主義は、資本の運動を基礎として取り込んだ生産です。資本主義とはすぐれて産業資本主義であって、大工業による産業資本の運動によって確立します。疎外された労働が大工業によって資本のもとで実現している生産様式です。労働する諸個人が自己の生産手段を喪失し労働力を商品として販売し資本のもとで疎外された労働を行う、という生産が、たえず行われ、社会的諸関係を包摂していく。これが資本主義社会です。

by kamiyam_y | 2010-08-24 21:23 | 資本主義System(資本論)