さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

限界limit/Grenzeとしての資本主義capitalism /Kapitalismus(2)

先日NHKBS1「きょうの世界」で『グリーン・ゾーン』(Green Zone (film) - Wikipedia, the free encyclopedia)が紹介され、主演のマット・デイモンや、グリーングラス監督のインタビューが放映されてました(「米映画が描くイラク」)。

解説の市瀬卓氏も、イラク戦争について問うことができるようになった、という趣旨のことを述べてましたが、戦争が真にイラクのためのものだったのか問いかけるこの戦争を根本から批判する映画が作られていることは興味深い。戦争開始の正当化の主たる根拠とされた大量破壊兵器保持が事実でなかったことをはじめとして、戦争の大義名分は当初から揺らいでいましたし、戦争中も反対の声があげられていたのですが、いよいよ、アメリカ合衆国の大衆が戦争を冷静に本格的に振り返る時期に来たというべきなのですね。合衆国の市民社会がもつ自己批判の力というか、自己認識力を感じておきたい気がします。

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生産の発展は人間の自由な本質を実現する土台です。

とはいえ、このことを、労働する諸個人が既知のこととして知って労働を行ってきたわけではありません。

反対に、かれらにとってかれらがつくりだしてきた世界は、巨大な闇におおわれた不透明な、神秘的な威力なのでした。大地に原生した人間は、かれらの世界をかれら自身のものとしてではなく、原生的な群れを支配する権力として、大地の所有の力として、いいかえれば、封建領主に人格化される土地所有の力などとしてつくりだしてきました。労働がつくる世界は、人々を縛る世界として、かれらを飲み込む超えがたい力にみえます。

資本主義は、この疎遠な世界を、人による支配から切り離し、経済法則として純化して完成します。労働の疎外された力を、ゲマインシャフトの人格的依存から分離し、資本主義の無政府的経済法則に変えます。こうして、労働が生む世界が諸個人の対象として定立しており、このことを前提にして、労働という原点を諸個人がおもいだすのです。労働による世界形成が資本主義にまで発展の道を歩んではじめて、労働は、発見されるという仕方でもって自覚されるのだといってよいでしょう。

資本主義は労働の自己疎外的な発展を完成するという人類史における独自の役割をもってます。この完成において以前の歴史の真理が明かされます。原生的ゲマインシャフトにおける集団幻想的神話を統合の契機とするような生産は没落します。部族Aは、リンゴを育て生きているので、リンゴの神を信奉してまとまっており、部族Bは、馬に乗って他の部族から貢ぎ物を得て暮らしているので馬具を崇めており、といった人類の分裂状態は、産業ロボットの時代には現実的基盤を失います。

資本主義が社会的労働の関係を経済法則化するのは、商品生産の全面化によってです。ここで諸個人はまさに原子としての諸個人として規定されます。この諸個人としての規定の大きな意義は、かれらが、ゲマインシャフトの共同幻想に埋没した存在ではなく、自覚して対象を知る主体になることです。

かれらに対して、かれらの労働の世界が、ゲマインシャフトから脱した経済法則の網の目となって、相互に孤立するかれらを、かれらの地面の下で相互に世界的に結びつけていきます。かれらの労働は大工業としてその普遍性を開花し、大工業を手段とする剰余価値生産の流れは、生産と消費を全地球的にものへと変えていきます。

労働がこうして資本の世界市場にまで展開することによって、資本主義が完成しています。ここに労働する諸個人の疎外は完成しています。自覚して対象を知る存在である諸個人と、かれらに疎遠に形成されたかれらの自身の普遍的環境とが対立する、というかたちでです。

この対立こそが、諸個人に、社会の基礎が労働であることを、かれらがその労働と社会の主人公であることを認識させます。大工業は、人間自身の偉大な変革力をまさに人間自身のものとして、天上界の創造物ではなく、人間の産物としてかれらに理解させます。世界市場は原生的ゲマインシャフトの局地的な実践的迷信を解体し、人間のグローバルな本性を理解させます。労働する諸個人が対立する世界の内部に見いだすのはかれら自身が形成した世界です。

ここで、資本主義は人類を1つの世界史にまとめあげ、諸個人を世界史的諸個人に転化させていきます。資本主義の完成という労働の全面的発展と全面的疎外、これが、世界の産出過程が労働による過程だったことを示します。労働する諸個人は、観念による歴史形成という神話から、労働による世界の産出に、知る根拠を転換します。産業の発展は、諸ゲマインシャフトの諸集団幻想・諸歴史神話の役割を消滅させ、掟の歴史、政治支配の歴史、などなどの歴史が記憶の恣意的結びつけにすぎなかったことを語ります。労働による世界の産出を諸個人が自覚できるようになります(直接には労働する個人において能動化している自然の自己産出が自覚的な人間的な形態を得るともいえましょうか)。

資本主義においても、社会の断片化された諸関係は、不透明なヴェールのなかで、法や政治、哲学、といった社会的諸関係それ自体の歴史を紡ぎだし、資本主義の弁護イデオロギーを分泌し、とりわけ経済的範疇(分配、所有など)をその主軸にしていく(「経済学批判」の対象)わけですが、資本主義はこのヴェールを脱ぎ捨てるということが重要です。

労働する諸個人が社会の主体として民主主義を獲得し、環境や労働などの地球的問題に対して、民主主義を徹底することによって解決しようと苦闘しているとき、かれらはかれらに対立する対象のうちに、かれら自身の産物を見いだし、それを再獲得しようとしています。たとえば民主主義と対立する企業権力に対峙するというかたちで資本主義に対峙するとき、諸個人は、世界的生産過程はだれのものか、問うているのであり、かれらの自由の土台を奪還しなければならないという客観的要請を示しているのです。

この苦悩する諸個人に対して、資本主義は大人しくさせるべき対象としてあらわれており、資本主義はその発展の最前線においてその対立性を諸個人の限界として示し、暴走する資本主義自身の持続可能性の限界を、暴走する資本主義がみずからを超え出ていくべきという要請を示しているといえます。
by kamiyam_y | 2010-04-01 23:05 | 資本主義System(資本論) | Trackback
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