さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

株主カメラ

今回の株式争奪をめぐり、日経新聞では「会社とは何か」という連載が始っています。その「第1部 大買収時代を生きる」の1「社員はヒトかモノか」という記事(3月25日)が、こんなふうに言ってました。ちょっとおもしろいです。

「『会社』が揺れている。ライブドアとニッポン放送の攻防劇がきっかけだ。株主のために利潤を追求する装置、社員に生活の糧を提供する共同体、そして社会の公器。」

「『資本市場では社員は単なるモノなのか……』」

「自らを社員といい、会社の一部と信じていたのは幻想だった……。今回の買収劇で多くのサラリーマンが単純な事実に気づいた。」

ここで私の秘密兵器、社会関係カメラをとりだしましょう。これは、複雑な現実から、特定の社会関係だけをみえるようにするカメラです。このカメラのレンズは、「私有財産のもちぬしの視線」「自然に働きかけモノをつくる労働のまなざし」「カネの視線」というような種類があります。それを装着すると、みえなかった流れがくっきりとみえてきます。

たとえば、「日本的会社」というフィルターをこのカメラにつけてながめてみます。そうすると、会社は、「社員に生活の糧を提供する共同体」としてくっきりみえます。

このカメラが見逃さないのは、日本の会社の古いしきたりです。「ウチの娘を御社で躾けてください」「はい、大切に預からせていただきます」なんて会話もとらえてしまいます(そんな会話ほんとにあるか知りませんけど)。娘の就職は、大名どうしの政略結婚みたいなもの。

ところがこのフィルターではよく写らなかった波が会社をおそいます。
マネーゲームという波です。別のフィルター「資本市場」で見てみましょう。それを通して見ると、会社はただのモノです。働くヒトの共同体なんてみえません。原料や道具に混じって、労働力もモノでしかなく、ただのコストです。
ニッポン放送の従業員は、自分たちを、フジ・サンケイグループの「社員」だと思っていたら、そうじゃなかった。ニッポン放送がフジテレビからソフトバンクの系列の手に渡っても、ニッポン放送従業員は蚊帳の外。

フィルターを替えるのは面倒です。万能の自動モードないんでしょうか。あります。「労働」に即するカメラです。現実の分裂を生み出しているものをとらえるカメラです。

ここでは、株主のカメラにこの分裂が写ってくるという話をしてみます。半分以上冗談ですからテキトーに読んでください。

株主マナザシのカメラからすると、株主があつまって経営者を選ぶ。利益は株主の配当になる。経営者の独自の意思も、会社の独自の行動もありません。主人公は私たちだけ。こうなります。サラリーマンはただの交換相手です。お金を渡す代わりに労働をもらう約束相手にすぎません。

つぎに、このマナザシで、実際に商品をつくり売る流れをみます。そうするとまさに、会社は株主のモノで、労働者のモノではない、こういう約束事しか、ここではみえません。

しかも、もっと絞ってみると、会社は、自分たちのカネで、労働力を、ほかのモノと同じように買ってきて、自分たちの意思のもとに使います。できたものは、私たち会社のつくったもの。

当然、サラリーマンの意思はこの過程の外です。かれらは、会社でつくりだしたものが自分たちの血と涙の結晶であることをわかっていても、それを自分たちで協同で管理することができません。会社は株主のものなのだから。

できた商品は、かけた費用を超える剰余価値(労働の産物)を含んでいます。そうじゃなきゃ企業も経済も成長しません。でも、剰余価値は労働者のものではなく、ぜんぶ会社のものです。

ところがです。株主を見てみましょう。株主の集団である会社と、労働者とは対等のはずでした。しかし、株主はなんにも頭も体も動かさないのに、配当を得ています。えっ、たんす預金もできたはずのものをわざわざ危険にさらしたんだから、分け前よこせって?でも、分け前をよこせというこの理屈からは、剰余価値である配当そのものは生まれません。株主はサラリーマンに払った以上のものを得ています。株主カメラでも剰余価値がみえちゃうんでした。

さらにところがです。株主は会社の肥大のなかでじゃまになってきます。配当よこせという株主の声もかき消されます。それどころじゃないですよ、他社も設備投資どんどん増やしてるんだから、待ってくださいよ。経営者は会社の内部留保に精を出し、利益も追加投資に回され、株主の意見もあってもなくてもいいのものになっていきます。ここでは株主カメラから見ると、会社は自分たちのものなのに、自分たちが閉め出されている、株主でもない経営陣のもとにある生産・流通からは、自分たちは完全に切り離されている。株主は自分たちの疎外を知ります。

しかし、経営者を見ても、彼は会社のもちぬしではありません。

ということは、会社は誰にも帰属しない、モノではない市民たち(株主も市民)の社会の要素なんだ、ということになります。会社経済の公共性をみとめざるをえません。

公共的なものには公共的なルール作りが必要です。
先の連載第3回(3月27日)では、証券市場のルール整備の遅れが、犯罪性資金に活躍の場を与える危険性が指摘されています。「外資系企業が制度のすきをつくくらいならばまだいい」と。
規制はいけない、市場に任せよ、というとんちんかんな話ではないのです。
by kamiyam_y | 2005-04-01 19:14 | 資本主義System(資本論) | Trackback | Comments(0)
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