さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

類的本質の疎外態

酒やコーヒーの香りを表現するのに、ベリーとか、明るい酸味とか、柑橘系とかいろいろ自由に連想しますよね。香水の薫りと糞尿の臭いは紙一重ですから、香りに対して、ミルクを飲んですぐの赤ん坊の小便のような香りとか、冬の雨の日の、清潔感ある男性の背中の汗のような香り、といった直喩を用いることは、その人の人生経験を本人およびそこにいる人に思いおこさせ、酒や食事の席を豊かで実りあるものにします。

いつでもこういう豊かさを演出できるよう日々努力を怠らぬよう私は飲み物の香りを楽しむときに、オーク樽の香りやら、オレンジピールやバナナやらだけでなく、爽やかに闊歩する美しい乙女の微かに風が運ぶ腋臭ような、ほのかに鉛筆の芯や錆びた鉄や透明な汗を思わせる腋臭のような香り(同じ臭いの成分であったとしてもこれが滅多に風呂にも入らない無精なむさ苦しいおっさんの腋臭では快ではなく不快と感覚されよう)を、揮発成分が分子運動するグラスやカップの気流の中から探しあてようとしてますが、なかなか出会えないです。

コーヒーから立ちのぼる化学的諸成分は、自然の豊饒な素材でありながら、人間社会において美という精神的なものを喚起する素材を形づくっており、自然素材は人間的にまとめられ、人間の五感もまた人間的に作用しています。化学成分が鼻腔奥の粘膜細胞に到達するという物理的な運動はそのものとしては美たることに対して無関心でありながらも、コーヒーカップをもった人間にとって空想を喚起する調べとして働きます。

コーヒーチェリーの果実を採る、種を出す、乾かす、焦がす、挽く、などなどの動詞群は、孤立的には直接にはそれ自体としては自然力の作用にほかならず、それが人間の目的の連関にまとめられ、自然力の作用が、人間の生活・生命の過程において統一されています。

こうして連関において二重化することはそもそも生命において、自然から発生した生命においてそれが生きることそのものになっています。生命を織りなす化学的諸反応は、スタート地点がたえずあらわれてくるような連鎖であり、生命の運動は、自分からはじまりながら環境の物質を吸い込み、環境を自分の場にし、環境を自分の支えにしながら、物質を入れ替え排出してふたたび自分に戻ってきます。生命はすべて環境から素材をえていながら、素材は生命の形です。生命一般が内的な目的的運動であるがゆえに、その対自的な形態である人間の労働が区別されます(生命の直接的な合目的的性格と、それに対する労働の合目的的性格の媒介的な・対自的な性格について、有井行夫・長島隆編著『現代認識とヘーゲル=マルクス――認識主義の没落と存在主義の復興――』青木書店、1995年、有井序論他)

環境の素材たとえば木を、机に変えるときには机という目的は主体の外にありますけど、生命は外部に働きかけながらもその働きかけにおいて主体自身の内部に目的も手段も折り込んでいる運動です。たとえば呼吸において外呼吸によって酸素を内部化し血液循環を経て、細胞呼吸(解糖系・クエン酸回路・電子伝導系)にいたり二酸化炭素を排出してふたたび外呼吸にもどってくるというように、生命は手立てを取り込んだ目的であり、さらにはこの生命と環境という大環境が生命を実現する大生命となっています。

いうまでもなく、こうした生命活動は生命そのものであって、無意識なものです。計画表にのっとって酸素を取り込んでいたら死んじゃいます。

学習能力や心の原初的な姿みたいなものがありそうな高等な哺乳類は(計算すると飼い主が自称するお悧巧な動物は人間の表情や雰囲気をつかんで反応します)、もう一歩複雑な存在の仕方をします。自分という目的がさらに自分を動かしてそのままの自分から少しだけ引いた自分がずれ、環境に対して少しだけ回り道をして、環境と自分との間に環境を合成したりします。サルが葉っぱでアリを釣って食べるとき、葉は労働手段ですし、サルが森の上に葉を折り込んでそこに寝るなら、この葉で編んだものは住まい、生活手段です。

でもこれはあくまでもまったくもって偶然的で孤立的な行動というべきであって、サルはやっぱりすぐに食べたりすぐに寝たりするために環境のごく一部を加工してみるだけです。サルは人間社会が生まれて以降はそのままサルにとどまっていなければなりません。

「動物はその生命活動と直接に一つである。動物はその生命活動から自分を区別しない」「…動物もまた生産する。蜂や海狸や蟻などのように、動物は巣や住居をつくる。しかし動物は、ただ自分またはその仔のために直接必要とするものだけしか生産しない。動物は一面的に生産する」(マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳、岩波文庫)


合衆国で1月にジャンボ機がバードストライクでエンジンが壊れ、ハドソン川に着水した事件があったのをおぼえてますか。偶然も関与しながら機長の判断と卓抜した技術によって犠牲者を一人も出さなかった事故です。たまたまこの事件を取材した番組を観る機会があったのですが(NHK「BS世界のドキュメンタリー『ハドソン川 奇跡の着水』」)、乗客のその後を追ったインタビューが感動的でした。大事故から生還した乗客は、自分は死んだかもしれないのに今こうして生きているのだと実感し、与えらえた人生をどう生きていくのか深く考え、人生を見つめなおし、あるいは深く関わっている人たちとの愛を再確認します。もちろん悲劇なのであり、ちょっと要因が異なれば、亡くなったかもしれないのですから、悲劇は避けられるべきであることはいうまでもないとはいえ。

もう1つ私が感銘したのは、着水後の救出劇でした。不時着したとたんに浸水し、気体が沈んでいくのですが、近くの客船が即座に救出に向かうのですよ。救急部員もヘリコプターが水面に近づくと溺れかけている人に危険なので高いところから飛び降ります。

私は観ていて人間であることの偉大さと誇りに涙しそうになりました。

川の近くにいた人のなかには画像を撮れば売れるぞと携帯かデジカメで動画をとりだす市民もいたわけですけど。これも人間の偉大さ・すばらしさ(「類的生活」)を単なる排他的欲求のための手段に貶めるという転倒の悲しさを感じさせましたし、この排他的私的利益を介して多くの人が映像を見て感動するなら皮肉な感じもしますが、せっかく感動してたので気を取り直し、こんな卑小な人間たちをも役立てつつみこむわれわれの文明の懐の深さこそ人間のすばらしさではないか、と理屈をこねてみたり、人間のすばらしさを個人の私利に変え、個人の私利を人間の共同のものに変える分裂の巨大さこそが人類史の現在ではないか、と考えてみたりもしました。

生死をかけた決断のときに機長が必死でマニュアルをめくっていたのも人間の偉大さを感じましたね。親方が徒弟に隠す秘技では航空機操縦は継承できない。親や親方やらに人格的に従属して一つの仕事しかできなくなる(ということは人間はなんでもできるから一つのことに特化可能なのですが)ように仕事を覚える動物的社会的分業の時代を終えて、科学的生産手段は科学的な形で公開された知をもって継承されます。生産手段とは社会の基盤であり、見えない関係性に意味づけられた自然にほかなりません。犬からすれば、石も石器も見分けがつかないでしょう。

そうです、人間である人間が、人間のすばらしさを思うこと自体が、すばらしい。土の1部である蚯蚓は自分が蚯蚓であることを知らず、海水と岩の一部であるイソギンチャクは自分が生きていることを永久に知ることはない。対して、人間は人間であることを自覚している。

「対象的世界の産出…は人間が意識している類的存在であることの確証である」


人間は、自分という目的と、自然と同じ平面で自然に対して作用する自然力(註)としての自分自身とに自分を二重化します。個々の行為直接は人間精神の外の自然の過程であって、たとえば、日本酒を造るときには昔足で洗米したそうですが(尾瀬あきら『知識ゼロからの日本酒入門』幻冬社、117頁参考)、タンパク質の塊である足が、水を張った桶に対して上下運動して、木からなる桶の底面と足という二つの物体によって米に圧力を加え、米表面から糠を分離するという過程は、それ自体自然力の作用です。米を洗うという人間の行為は、直接には自然の運動です。しかしこの運動は酒造りの迂回路のなかにおかれており、この迂回路は人間精神という形を介しての自然自身の姿態産出であり、新たな自然の編成、自然の造形です。自然の過程が人間による生産過程という意味をもってます。桶は労働手段、米は労働対象です。洗った米をもとにして発酵をさせるなら、それは微生物による生命の過程であるとともにこの生命の過程は化学反応です。数多くの行為と過程が、酒を造る生産計画として表象され、一連の流れのなかに要素として落とし込まれていきます。

註:人間は自然ではなく社会的存在だろう、と早合点して混乱しないように。生産手段と労働力は社会的なものですが変革された自然です。

人間は、目的である自分から、それ自体自然の法則に従う自然そのものとしての自分、自然力である自分を区別し、自己を意識するとともに、この自然力という自己と連関する自然を対象として意識します。自然が人間に対して普遍的に対象として立ち現われてくるのであり、対象の姿を変える目的の意識は個々の行為を統一して表象し、過去を現在に現在を未来に回転させていく時間の意識でもあります。自然は人間の外部にあってかつ人間に法則としてその中身を公開していく普遍的な存在です。対象をつかみ表現する言語が、対象とのかかわりである言語が生れます。生産を共有する言語的交通が発展します。

人間は自分もふくんだ自然を、自分の眼前だけではなく広く深く自然のあらゆる内容を対象とします。人間が自然を対象とするとは、自然の総体を対象とすることです。

「…人間は普遍的に生産する。…人間そのものは肉体的欲求から自由に生産し、しかも肉体的欲求からの自由のなかではじめて真に生産する。すなわち、動物はただ自分自身を生産するだけであるが、他方、人間は全自然を再生産する」


自然の一部と肉体的にかかわるのではなく、自然総体とかかわる人間は直接的にではなく普遍的媒介的に生産します。砂漠を裸足で歩けない人間が、砂漠の一部でありながら人間に親しい駱駝を家畜とすることによって、砂漠を自由に移動するという自由を拡大するように、人間は、自然と人間との間に変革された自然である道具を挟み込んで自分の生活を普遍的に生産します。

機械はそれ自体直接には自然の素材から成りたっていますが、物理的化学的数学的諸法則がそこには人間的に、人間的目的によって再結合され再現されて、生産手段として働くという意味を与えられており、この意味を実現するには人間の共同の関係が必要となります。生産手段とはすなわち関係性です。鉄や石そのものは生産手段ではありません。

ラフな組織であればルールを決めた文章の意味がそれを作成した当時の人がいなくなればなんだか不明になったりよくしますが、なんといっても知識は消失していくものです。人間つねに知識を捨て去って生き、忘却によって成長するもの。しかし生産手段という存在は分からなくなっては困りますから、自然を生産手段にしている知識は捨てるわけにいかず、人間個体の入れ替わり(生死)を超えて、かれら諸個人は労働において、生産手段を生産手段として用いつづけ、生産手段を生産しつづけます。

言語はローカルですが、生産手段の関係はグローバルです。掟もローカルですが、直接労働のつながりである経済はグローバルです。生産の掟がそれだけで自分のなかの理由だけでもって発展することはありませんが、生産は発展し、生産の関係として関係は不断に生れ、労働の経験は蓄積し、生産の発展の姿として生産の掟という知識は消失をのがれ、生産の発展に支えられて、言葉や学問や芸術といった知的な(高次の生産)関係もまた再生産されます。「政治、法、学問等の、芸術、宗教等の歴史は存在しない」(『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』マルクス/エンゲルス著、廣松渉編訳、小林昌人補訳、岩波文庫、209頁)

人間は自分に対してあるがゆえに、平たくいえば自分に命令することができるがゆえに他人の命令に従うことができ(蚕や蜂は生産手段にはなれても奴隷になることはできない)、サルから別れたばかりの頃は、自分たちの自然の諸力と社会的集合力を空の上やら地面のなかやらにいる想像された存在の力におきかえて理解し、王の権力の形で形態化してそれに従うことを介して、動物的社会的分業を営み続けていました。そんな状態を打破するほどに生産の発展した現代は、人間が人間として尊厳されること、生きた人間が社会の正しい作り手であることを合意しながら、人間が人間でないグローバルなものに従属してます。そう、貨幣ですね。

労働は自然的社会的諸要素をまとめあげる運動であり、この労働を捉えた貨幣、労働の疎外体である貨幣は、自らをスタート地点にしながらかつ自らをゴールとして折り返していく貨幣です。この貨幣という見えない運動は、商品を、労働力を、貨幣を自らの生活の環に見える形で位置づけ、さらには、人間を、法律を、言語を、ありとあらゆる環境的諸要素を自分の器官にしてそれによって規制される目的となっています。この目的と手段の全体が労働の対立的姿での実現であり、現代社会です。普遍的な分裂。現代社会とは貨幣、そも資本なるものとしてリアルな姿を見せるというわけです。

原生的共同体による生産は貨幣による生産によって全面的に解体され、貨幣による生産は、人間社会による生産を実現する諸条件を急速につくりだす普遍的な分裂にほかなりません。

そもそも労働の産物によって他人の産物を手に入れることが労働を貨幣化することであり、社会的労働のとる特殊な姿が商品なのでした。また、労働力を買った資本はその消費によって貨幣増大をなしとげるのであって、人間こそが貨幣を生む貨幣存在なのでした。

貨幣とはこのように労働の関係であるにもかかわらず、労働の外の力として労働を支配するものです。しかも同時に、労働でないモノに属する力として現れて、この転倒を隠します。対立的本質を隠蔽することで転倒が完成します。

貨幣というこの転倒は、しかし、巨大産業、現代的工場やグローバルな社会的生産として自分を形成することによって、人々をこの隠蔽の密室から、生産を自らのものとして制御すべきという課題が提示された地平へと連れていきます。貨幣の帰結は貨幣の転倒性の再転倒です。

グローバル経済こそは、人間から分裂した人間の普遍的土台であり、グローバルな形で人間の分裂的自己産出は完成しつつあるというべきでしょう。強引にまとめてみました。
by kamiyam_y | 2009-05-17 21:51 | 労働論(メタ資本論)