さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

企業権力と持続可能性

昨日の日経の社説は、漆間問題を取りあげてましたね。道新も小沢の「説明責任」だけではなく、漆間発言に触れてました。

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今騒がれているのは、現行の法律に則してカネの経路を明白にせよ、ということでしょうが、そもそも「政治とカネ」が問題となるのは、「企業の政治献金」が本質的に転倒を含んでいるからです。個々の見返りを求めた明らかな袖の下ではなくても、企業の政治献金は、生きた個人のみを主体とする近代社会の自己納得化様式を無視してます。この主体に包摂されてのみ社会的なもの、組織、関係は正当化されうるという様式から逸脱してます。

生きた個人こそが自由であり、人権をもち、社会契約をする主体であるという理念はいわば近代社会を生みだした理念。この理念を、企業が「企業の人権」という形で奪い取ることは、この理念の中身を押しつぶし空洞化させることにほかならない。

企業は法的には個人が作った道具にすぎません。企業は、労働する諸個人が関係を結ぶ関係の束であり、それを体現する物象です。企業が人権をもつことは、関係が、物象が人権をもつということであって、近代の理念を正反対に裏返すこと。例えば、従業員の精神的自由、思想良心の自由よりも、会社の精神的自由が優位するなんてなったら大変ですよね(それに近い現実はあふれてますけど)。

生きた個人だけが主人公であると認める近代の理念は、実際の経済の編成を、人々が共同で関知できない物象的関係に担わせる、という巧妙な棲み分けによって成立したかに見えた。しかし成立するや、物象的関係は企業という形でたえず暴走する威力となる。飽くなき資本蓄積は際限なき運動です。使用価値目的なら止まりますが、価値目的、価値増殖目的なのですから止まろうなんてしません。資本への愛をあおりたてることに依存したシステムは直接には膨張のための膨張なのですから、持続可能なものではありません。

こうして、生産関係が能動化し、暴走する威力としてあらわれてしまいます。しかしこのことは人権にもとづく社会を成熟させることへの転換そのものです。

なぜなら、経済を編成し統合する力が、人権の実現を止める障壁であるかのように可視化されるからです。可視化され人々がともに調整する対象としてあらわれるからです。

カネは私物の形を取って始まりますけど、始めから関係であって公共的です。公共的なものが暴れてしまうのをいかに抑えていくのか。政治とカネをめぐる制度的工夫の課題はここに帰着します。

制御されざる生産関係が、人権の実現にとって資本主義的限界を与えているが、こうした関係の暴走が、生産関係の運動をうまく調整するように仕向けます。様々な調整の工夫によって、物象が暴走しないようにその行動を和らげ大人しくさせることが持続可能なシステムへの転換であるといえましょう。
by kamiyam_y | 2009-03-10 23:21 | 企業の力と労働する諸個人 | Trackback | Comments(0)
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