さっぽろ地下鉄のなかでマルクスを呼吸する、世界を呼吸する

貨幣を中心にフェアであることは

マルチの代弁者野田聖子にはがっかりしました。別に好きなわけでないですけど。消費者担当大臣がそれはないだろうって話。

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有名人に似た人(有名人ではない)がなぜか夢に出てきました。

その1。テレビで福山雅治に似た人(福山氏ではなく私の夢のなかの映像にある人の姿)が歌ってるんですけど、ギターもってないしダンサーと一緒に踊ってるしヘンです。

「爆発的にバイバイバイバイ~」

いくらなんでもこんな歌詞ありえない、のですけど、夢のなかの私もどうしたんだ、底が浅すぎる、と悩んでます。

この夢を見た理由は、おそらく、地下街のCDショップで福山の新譜のポスターをみた記憶の断片が目覚め前のレム睡眠期にランダムに再生されたのか、要らない記憶が捨てる前に変形されたのか、でしょうが、よくわからないです(というか、べつにとりたてて理由はなくてもかまわないんですけど)。買おうかなと思ったのかもしれません。とりあえず買ったCDはアジカンとMO'SOME TONEVENDERとミドリとKen Yokoyamaです。

その2。バーだかレストランだかで、私の後ろの席にアソーソーリに似た人(アソー氏ではなく私の夢のなかの映像にある人の姿)が座って密談しているんですが、声がでかいのできこえてきます。

「なんでもトロピンとかいう人が世界の革命を主張してるんだ。俺も日本を世界のリーダーにしたい」

たぶんこれはトロツキーの間違いです。

どうでもいい夢ですけど、おそらく外国人の名前を間違えるというのは、昼間読んだ記事の印象が残っていて変形されたのかも。「前場」(ぜんば)を「まえば」、「有無」(うむ)を「ゆうむ」と読み、「措置」を「しょち」と言い間違えた、という記事です。ちなみにニューヨーク市立大学教授霍見芳浩が本物の氏と会った時に「私はマンガしか見ませんから」と話したらしい(「CIA極秘ファイルの破壊力」『週刊金曜日』721号、2008年10月、13頁)。字の読み間違えは私もしますしご愛敬としても、また出生自慢にも興味ないですけど、差別発言が本当ならこの市民社会内部に残存する古い狭隘な意識を代弁する口なのかとその人間的資質を疑うに充分の材料かと。北大山口二郎教授も「人間失格」と述べてます(東京新聞9月15日朝刊「本音のコラム」)。

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新書など。

平野貞夫『国会崩壊』講談社。小泉時代の解散権行使の異常さについてあらためて論じる姿勢(52頁)がよい。

後藤和智『「若者論」を疑え!』宝島社。少年の凶悪犯罪増大だのケータイ・ゲームによる変質だのいった思い込みを垂れ流す論調を批判。

人間の孤立は矛盾を生みだし矛盾を隠すが、調べたり検証したりすることなく若者バッシングをする論調も社会の分裂と権力の自立化を助ける。前国交大臣の暴言も似たところがありましたね。いくら自民党が企業・業界献金をもらっているからといって戦前の軍国主義的心情を許すほど未成熟な社会ではなく、引責辞任は当然。週刊現代(10/25)の青木理氏の文章(「新聞の通信簿」第98回)参照されたし。

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貨幣を中心にフェアであることは

『比較経営研究』第32号(2008年3月)という学会誌が届いていたのでみると、仲野(菊地)組子「アメリカの労働市場改革-悪い雇用から良い雇用へ-」と森岡孝二「悪化する労働環境と企業の社会的責任-長時間労働と非正規雇用を中心に-」という論文が掲載されていました。森岡孝二編『格差社会の構造-グローバル資本主義の断層-』(桜井書店、2007年)に連続する作業のようです。

後者の森岡論文の最後の方に「社会問題について発言する株主運動や消費者運動が非常に弱い日本においては、CSRの概念は、世論の批判をかわすために企業の側からきれい事として唱えられており、雇用や労働に関するCSRはほとんど語られていないことも見ておく必要がある」(70頁)とありました。

CSRを謳う環境に優しいと自称する企業において労働者に対して残酷というのはごくありふれたことなのかもしれません。

個人が企業を制御するために主張される社会的責任という言葉は、それ自体合意みたいなもんだとしても、全体の流れのなかでは、企業とその競争の全体である経済とが、自分を正しいものと見せるために主張する合言葉に転換してもまたいるわけで。にもかかわらず、株主も消費者もそして労働者も企業に関わる積極的なアクターであり、企業を制約する要因ですから消費者運動等々が果す意義は重要です。

大企業が社会的影響力をどのように行使するのかということを社会に対して宣言しなければ行動しづらなくなる。このこと自体は、生産の社会的発展が進み、実質的には(可能性としては)人々の共通の道具になっていることを意味します。が、同時に、企業が立てる行動規範は、社会全体の流れのなかでは、その精神と逆のものを擁護することに反転する。企業が社会的責任を自ら自覚して果そうとしているという主張は、企業は社会的なものだと宣言しているわけですが、この主張がまた諸個人から自立した力になった社会的力である資本を正当化しようとする。

とはいえこれは資本をやっぱり批判する。企業の責任が私利追求だとされるばあいも、雇用という社会的責任が持ちだされるくらいに実質的に社会的なものですから、企業は。

そもそもお金自体、潜在的に社会のものであって、持ち主が産業資本として投下すれば、持ち主の手を離れます。労働の連続性の姿になります。その運営は資本家の子どもではなく、労働者が担ったりします。

でもまた、本質を隠すためには、資本は自分を直接的な交換にみせかけます。交換は自主的だし、等価物の交換なので、これを拡げて、労賃という個々の法的契約では、資本家と労働者は対等で自主的です。もっと拡げて政府、企業、家計、それぞれ平等ってぐあいにもなります。

しかし資本はその再生産と蓄積において、全体の流れにおいて、労働者が自己の客体的諸条件を喪失し労働力を売らざるを得ないことし再生産し、労働者の労働がすべて資本の力となることを再生産し、さらに資本の持主から剰余価値を収奪して資本蓄積していくので、本質をみせてしまいます。生きた人間すべてから離脱した社会的生産。ちなみに世界の矛盾は明日の生活を心配をする労働者において実践的であり、資本家においては潜在的ともいえます。労働者の解放に金の亡者の解放も従属するってやつ。

中核労働基準の遵守を企業が行動基準として取りいれる現代は、市場を通じて社会の改善を図ろうとする共同的な意志なしには市場なるものの正当性ももはや保たれないほどに労働が社会的に発展している。自由放任的市場のフェアなもの(個人の自由)は封建王政に対してフェアだったが、現代はアンフェアなもの(資本の自由)に転じ、フェアなものであるためには規制が必要となるが、これまたアンフェアなものに、転じる。

フェアといえば、世界市場の巨大資本がフェアトレードを取りいれていることは、運動の側からするといいとこ取りされたとか、骨抜きにされたという批判が生じましょうが、社会的労働の塊としての巨大企業がタテマエとしては社会的共同性、フェアなものを求められるわけですから、フェアトレードの精神の一定の前進であるともいえます。さらには、このフェアがまたアンフェアなものに転じ、アンフェアであることを証す基準にもなるはずでしょうし。

フェアなものがアンフェアなものに、アンフェアなものがフェアなものにってのは、20代中半の青年マルクスが引用したシェークスピアの『アテネのタイモン』の一節「これだけの金があれば、黒を白に、醜を美に、邪を正に、/……変えられる」「この世の神、おまえは/両立しがたいものでも手を握らせてキスをさせ!」とそれにつけられたマルクスのコメント「私は心やましく、不正直で、不誠実で……しかし貨幣は尊敬され、したがって、その所有者も尊敬される」「貨幣は……すべての人間的および自然的な属性の、その反対物への転化であり、諸事物の普遍的な倒錯と転倒である」(山中隆次訳『マルクス パリ手稿』御茶の水書房、2005年、202-206頁、強調は省略)を思い浮かべていってみました。

市場がフェアであるためには単なる自由放任的状態を越えられねばならないということがいまでは明白です。市場が、フェアであるというその理念を活かすには市場は自らの物象的な自律運動に制御の網をかけることを要求する。「資本は、自己自身を発展の制限と感じ、そのように意識しはじると、自由競争を抑制することによって資本の支配を完成するようにみえる諸形態に逃げ道を見いだすのであるが、そのことによって同時に、これらの形態は、資本の解体の、また資本に立脚する生産様式の解体の告知者でもあるのである」(『経済学批判要綱』MEGA,Ⅱ/1.1-2,S.534)。
by kamiyam_y | 2008-10-30 20:54